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お金から見る中世日本経済①(室町幕府の悲哀 前編)

これまで、日本史についてはどちらかというと政治史や文化史について取り上げてきました。
しかし、やはり歴史を見るにあたってやはり経済史(モノやお金の流れ)という点は無視できないものです。

そこで、今回からは経済史的な視点から日本史を見ていきたいと考えています。
貨幣史という点で考えれば、既に貨幣に似たものは遠隔地交易が盛んにおこなわれていた縄文時代から存在していたわけですが、ここでは社会制度の中で発行される「銭」のお話を中心に取り上げます。

貨幣と考えると古代の富本銭

和同開珎

を含む皇朝十二銭

といった、朝廷が発行した貨幣が国産貨幣の元祖とも言えます。
ただ、今回は貨幣を介した経済史という観点から行くので、思い切ってこの辺りはかなりバッサリと割愛して(笑)室町時代からスタートしていきます。
(皇朝十二銭も、経済活動で使われていなかったわけではないのですが…)

というわけで、今回のテーマは


室町幕府の悲哀(前編) ~お金の発行は信用が命~

です。

さて、室町幕府と言えば足利尊氏

が祖となり成立した、鎌倉幕府に続く源氏系武家政権です。
では、その頃の経済体制はどんな感じだったか…というと、

確かに馬借(運送業者)や連雀商人(行商人)などを介して遠隔地交易は行われていましたし、モノの流動性はありました(例えば、奥州と京都にも繋がりがあった)。
しかし、基本的には安土桃山時代以前の経済の基本は「自給自足」です。

もし手に入らないものがあれば、「市」などで手に入れることはできました。
しかし、今のお店や市場とはかなり様子が違います。

まず、常設のお店(見世棚)はかなり少ないということ。
(ちなみに、江戸時代くらいまで店舗のことを「棚」というのは見世棚という言葉の名残です)。

そして、市場も常設ではないのです。
今でも各地に「四日市」「五日市」などの地名がありますが、これは例えば四日市であれば「毎月4のつく日(4、14、24)に市を開くという意味です。
つまり月に3回しか買い物のチャンスはないということですね。
これを「三斎市」といいます。

室町時代にはもう少し多くの開催日がある市も出てきましたが、それでも週に1回程度。

このように、生産活動や流通・商業が制約されていた大きな理由は

・治安の問題
・貨幣量の絶対的な不足

にあると考えられます。

まず治安の問題ですが、室町幕府による支配は当初から絶対的とは程遠い状況でした。
まず、天皇家は南北朝に分裂しており、それぞれに味方する武士団同士の抗争は全国で続いていました。
さらに尊氏派と弟の直義派に幕府が分裂して争いを始めます(観応の擾乱)
九州に至っては、大宰府を拠点とする懐良親王

により室町幕府の支配はまるで及ばず、中国(宋)から見ても日本の代表は護良親王であったという有様。
「日本国王」の称号を室町幕府がようやく得て、まともに外交ができるようになったのは、中国の王朝が明に代わった3代義満の時でした。
しかしその安定も長くは続かず、応仁の乱など数々の動乱を経て、15代義昭が織田信長に追放されて室町幕府が滅亡するまでの間のレームダック(死に体)っぷりは有名なところです。

このような状態ですから、各地の治安維持についてはかなり心許ない状況。高額な商品や多額の現金を持ち歩いて旅をすることはかなりハイリスクだったと言えます。
多額の現金(銅貨なので重い)の代わりに為替の仕組みも生まれましたが、それ以上に決定的な問題点がこの時代にはありました。


それは…
「国内に流通する貨幣の絶対量の不足」
です。

この時代の「貨幣」として流通していたのは、

・皇朝十二銭
・中国銭(宋銭・明銭)
・地域の独自貨幣・私鋳銭
・貴金属(金銀)

です。

宋銭

は、平氏政権下で大量に輸入されました。
貨幣(銭)が流通する前の代替貨幣として使われていたのは「布(特に絹)」です。
古代の税制や給与体系を見ても、「布(絹)」が出てくるのはそのせいですね。

元は盟友であったはずの後白河法皇と平清盛の対立も、以前の通り「絹」を基軸としようとした後白河法皇と、新たな「宋銭」を基軸としようとした平清盛の経済政策の対立があったと言われています。
日宋貿易を牛耳る平氏からすれば、宋銭が基軸になれば実質的に自分たちが日本経済の基軸を握ったことになります(宋銭は平氏が輸入し、流通させていた)から、この改革は絶対に成し遂げたかったはずです。
その後、平氏政権統治下で宋銭を中心とする貨幣経済は一定の広がりを見せ、それは鎌倉時代にも受け継がれます。
平氏と院の争いは、新旧基軸通貨の経済戦争の側面もあったのです。

しかし、その宋銭も輸入されてから長い年月が経っています。
少なからず劣化しているはずですが、日本では宋銭はいまだに基軸通貨として流通を続けていました。
勿論、平安時代以前の発行である皇朝十二銭の劣化具合も宋銭と似たり寄ったりでしょう。

それに加えて、その不足を補うべく義満の時代から大量に輸入された明銭

ですが、明が王朝としてはまだ若いこと、そして「新しすぎて偽造しやすい」という思わぬ欠点から、未だに宋銭の方が価値を持つような状況でした。
(西日本では宋銭、宋銭が手に入りにくい東日本では明銭の流通が多かったようです)


それなら、「室町幕府が皇朝十二銭に代わる貨幣を発行すればいいじゃん!」と思うのですが…

実は、室町幕府は政権としての信用がなかったため、全国に流通するような独自貨幣を鋳造することはできませんでした。

そのため、自分よりは権威のある明王朝の銭(明銭)を輸入することで、それを代替していたということになります。

当時の状況を考えると、

・昔作ったり輸入した銭はどんどん劣化している
・新しく輸入した銭は価値が低い
・室町幕府がそれに代わる銭を作ってくれるわけでもない

…ということですから、貨幣量は増えない(むしろ全国で通用するような良い銭は減っていく)わけです。

今で言うと、政府の信用度が低く、独自通貨がほとんど価値を持たない発展途上国が、米ドルを使っているのと似たような状況ですね。
(ジンバブエやベネズエラなどが顕著な例かな?と思いますが)

ところで、日本と明の貿易(日明貿易)は、「勘合」という割符(ビザのようなもの)を持っていないと明の港に入ることはできませんでした。
「日本国王」は、この勘合を明の皇帝から独占的にもらうことができます。
つまり、事実上この明銭の輸入については室町幕府が統制していたわけです。

ちなみに、勘合は一度に100枚くらいもらえます。
それを誰に配るかは、将軍が決めていました。
西日本の大名や商人は、将軍から勘合をもらえれば明に貿易船を派遣して莫大な利益を得られるので、あのレームダック状態の中でも将軍に対しては比較的好意的だったのです。
義満が得てくれた「日本国王」の称号が、首の皮一枚で幕府の命脈を繋いでいた…とも言えますね。

さて、次回はこのような状況下で、それぞれの地域ではどのように「貨幣経済」を回していたのか。
その様子について触れていきたいと思います。
話としては主に室町時代というより、戦国時代のお話になりそうです。


今回はひとまずここまで、ということで…。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


※すみません!懐良親王とすべきところを護良親王としていました。活躍した場所が東と西で全く逆ですね(笑)凡ミスです。大変失礼しました<m(__)m>

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