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長久保赤水と江戸の地図

先日の茨城新聞に、このような記事が出ていました。

江戸時代の地図製作家、長久保赤水に関する記事。
彼の制作した地図の下絵や関連資料、そして書簡(手紙)などが発見されたそうです。

江戸時代の地図製作家と言うと、伊能忠敬

がやはり有名で、彼が制作した『大日本沿海輿地全図(以下、伊能図)』

が江戸時代を代表する地図…という印象を持つ方も多いと思います。

先日記事にしたシーボルト

が関連した「シーボルト事件」でシーボルトたちが罰せられる原因になった地図も伊能図でしたので、やはり知名度でこの地図にかなうものはありません、
シーボルト事件では「ご禁制」となっていたため問題になりました。
この地図は、海岸線の精密さゆえに、国防上の観点から江戸幕府の機密扱いの地図で、当時は一般人は存在すら知りませんでした。

ちなみに、開国後に伊能図は外交交渉の過程でイギリスに渡ります。
※非公式には、シーボルトが伊能図を没収される前に夜を徹して模写した地図も、それ以前にヨーロッパに渡っています。それをもとにシーボルトは、帰国後に著作『日本』の中で精密な日本地図を描いています。

イギリスで出版された地図はその後、日本に逆輸入され、勝海舟らの手によって1867(慶応3)年に『大日本国沿海略図』として刊行されました。
これらの一連の出来事により、伊能図は機密性を失い、幕府による機密指定を解除されます。

一方、日本国内で古代から近世にかけて一般的に使われていた地図として代表的なのは『行基図』

以前の記事でも取り上げたことがありますが、奈良時代の仏僧、行基上人

が制作したと伝わる地図です。

さらに江戸時代に入ると、浮世絵師の石川流宣によって作られた通称「流宣図」が普及します。
1687(貞享4)年初版の『本朝図鑑綱目』、1691(元禄4)年初版の『日本海山潮陸図』がこれにあたります。
これらの地図は、海岸線の正確さこそ伊能図などには劣りますが、ふんだんに盛り込まれた地理情報、そして浮世絵師によって描かれただけあり、彩色豊かであったことから人気を博しました。

そして、江戸時代中期、日本地図に更なる革命的な変化をもたらした人物がいました。
彼こそ長久保赤水

です。

※長久保赤水とは

1717(享保2)年、水戸藩の農家の生まれ。
早くに家族を亡くし、本人も病弱であったとも言われますが、養母や友人の支え、そして本人の常人離れした努力によりその逆境を乗り越え、儒学・天文学・そして地理学を修めました。
齢50に至る頃、その評判を聞きつけた水戸藩主徳川治保の侍講となり、江戸の水戸藩邸に仕えることとなります。
さらに、自身の日本各地を巡った知見、そして立場を生かして様々な地図や各地の情報を入手。新たな日本地図をまとめ上げました。
赤水は学者であると同時に、62歳の時に農民生活の窮状を建白書『農民疾苦』としてまとめ上げ、水戸藩主に命懸けで上奏するなど、気骨溢れる一面もありました。
そんな赤水を水戸藩は重用し、退官後も80歳まで、藩主の特命により『大日本史』の地理志編纂に専念するなど、その晩年に至るまで水戸藩にとってなくてはならない存在でした。

享和元年7月23日(1801年8月31日)没。

赤水が著したのは1774(安永3)年の『日本輿地路程全図』そして、1779(安永8)年、その修正版である『改正日本輿地路程全図』

です。これらは通称「赤水図」と呼ばれます。

赤水図の一見してわかる特徴は「経緯線が入っている」という点です。
そしてもうひとつ。赤水は伊能忠敬のような測量家ではありません。
確かに本州の北端から長崎まで、日本各地を歩いてはいるのですが、彼が積極的に測量を行った記録はありません。
彼は、自分の経験と既存の地図や各地の情報を収集・統合することで日本地図を作り上げていきました。
現在で言う「編集図」ですね。
(伊能図のように実際の測量に基づくものは実測図と言います)

では、赤水は経緯線を描くために参考にしたのはどのような地図だったのでしょうか。
最も有力なのが、1754(宝暦4)年に描かれた『日本分野図』です。

これを描いたのは、京都生まれの町人、森幸安
生涯についての記録は多くありませんが、どうやら商人だったらしく、隠居後に全国を回り、さらに様々な地図を入手、参考にして10年の歳月をかけてこの地図を完成させたといわれています。
この地図も編集図ですね。

この地図にも経緯線があり、さらに朝鮮半島も描かれていることから、江戸初期に日本にもたらされたヨーロッパ系の日本地図、「南洋かるた」

や、その編集図である「日本かるた」

の影響を受けていると考えられます。
これらの地図については以前

こちらの記事でも触れていますので、ご参考までに…。

ということは、赤水図の経緯線は、
「南洋かるた(または日本かるた)」の編集図である「日本分野図」の編集図に描かれた線、ということになります。

実測に基づいた経緯線ではないこと、勿論投影法を用いたわけでもありませんから、現代の地図の経緯線とは異なる絵的なものであるという見方もできます。
しかし、驚くべきは、編集図でこれだけ正確な地図を描くことができた、森幸安や長久保赤水の情報収集能力と編集能力です。
方位を表す経線も比較的正確であり、伊能図より精密さは劣りますが、一般の実用には十分に足りるものでした。

赤水がこの地図を完成させるまでに欠けた時間は20年以上。
森幸安の編集期間を合わせれば、実に30年以上の歳月かけてこの地図は完成しています。

赤水図は、出版されると、その正確さと美しさ(6色刷り!)から大ベストセラーとなり、以後100年にわたって改訂を加えつつ出版され続けます。
この地図を手にしたのは庶民だけではありません。
吉田松陰をはじめとする幕末の志士たち。彼らの多くもこの地図に親しみ、これからの日本のあるべき姿を思い描きました。

そういった意味では、幕末、そして近代化のただ中で「日本」という国について人々にイメージを持たせた地図と言えるかもしれません。

というわけで、今回は長久保赤水と、彼が描いた地図について触れてみました。
皆さんのご参考になれば幸いです!

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