班田図

文明と地図を考える その16 「行基図」②

前回の記事は、「日本扶桑国之図」「行基図」など、平安時代から江戸時代にかけての日本地図について紹介しました。

その中で、共通する特徴として、地図の形が「お饅頭を重ねたような形」になっているという点に触れました。

今までの記事でも、地図が
「どのような目的で、どのような価値観に基づいて描かれたものなのか」
という点が、その地図を理解していくためには重要でした。

というわけで、今回は、
「お饅頭を重ねたような形が何の目的で描かれたのか」
についてもう少し掘り下げて行きたいと思います。

今回のテーマは


「日本扶桑国之図」「行基図」の描き方を考える

です。

まず、2つの地図を改めて見てみます。

両者の特徴を改めて見てみると、

・お饅頭を重ねたような形になっている
・街道が描かれている
・「国」の位置関係はある程度正確

なのですが、まず、このような描き方になった理由を推測してみます。


①詳細な形を描く技術がなかった
②詳細な形を描く必要がなかった
③このような形が、当時の陸地の形として当然視されていた


ぱっと考えつくところとしては、このような理由が挙げられそうです。
まずは、これらの理由についてそれぞれ考えていきたいと思います。


①の、技術がなかった…という点について考えてみます。

日本の地図というと、行基図のような全図が注目されがちですが、日本最古の地図…という話になると、このような地図が出てきます。

これは、西大寺所蔵の「大和国添下郡京北班田図」です。

班田図は、律令体制下で、班田収授法による班田給付を円滑に行うために描かれた地図です。
現在でいうところの、固定資産税台帳の地図に近いものですね。
この地図では、「どこにどのような水田があるか」が最も重視されるデータです。
後に荘園が発達すると、班田図をもとに荘園図が描かれるようになります。

この地図を見ると、水田の場所を把握するための地図だけあって、絵的な部分はあるもののきちんと碁盤目状に土地を区切ってあり、それなりの正確性をもって地図が描かれていたことがわかります。

後の時代になるとさらに正確性が増してきます。
江戸時代初期に描かれた国絵図ともなると

こんな地図が出てきます。
これは、「慶長国絵図」(薩摩=今の鹿児島県)です。
江戸時代初期に描かれたものです。
海岸線も含め、かなり正確な地図ですね。
これは、「それぞれの国の正確なデータを提出せよ」という徳川幕府の命令で作られた地図ですので、海岸線や地形などのデータの正確性を重視しています。
やればできるじゃないですか!という感じですね。

この地図は江戸時代初期に描かれたものですが、行基図は江戸時代中期ごろまでは一般的に出回っていました。
(上の行基図も、明暦2年(1656年)に描かれたものです)
測量技術も、江戸時代よりかなり前から土木建築や治水や鉱山の採掘などの目的で発達していました。
そのため、行基図は「技術がなくてつくれなかった…」ということはちょっと考えづらいことになります。


次に、②の、必要性がなかった…という点です。

これは、ローマの「ポイティンガー図」でも見られたように、地図は必要性に応じて描く内容が異なるという考え方につながります。

例えば、ポインティンガー図も
「各都市間の距離だけわかれば問題ない」
という、道路地図という用途に特化
されたため、陸地や海の形状についてはあまり重視されず、逆に街道や都市に関する情報が詳しいという描き方でした。

では、この考え方を行基図などに当てはめてみます。

…そう考えると、妙な点に気が付きませんか?
五街道など、主要街道の大まかなルートは描かれているものの、それ以上の情報の記載が一切ないのです。
街道の距離も、どのような町があるかも、何の目印もない…。
これでは、道路地図としても使い物になりません。
確かに日本では古代から官道、その後も街道が整備されてはいましたが、それでも距離や主要な町の情報くらいはあってもよさそうなものです。

となると、この地図はポイティンガ―図のように交通に使う地図ではないだろう、という推測が成り立ちます。

「日本扶桑国之図」についても見てみましょう。

周囲にびっしり書かれているのは、各国の人口や水田の数など、国別のデータです。
ただ、街道の詳細情報がないのは行基図と同じです…。

となると、この地図は
「道路地図など、実用性を考えてはいない」
という点は明らかです。
(実用性の地図でいえば、荘園図や国絵図が存在している)

そうなると、何か別の目的があるはずで…。

ここで今まで、それぞれの地域で地図を描いた目的が何だったか、原点に立ち返ってみます。
最も初期の地図は、バビロニアの地図のように

「自分たちの世界観を表現する」

ものでした。
もしかしたら、行基図などの「お饅頭を重ねたような形」もそれに該当するのではないかと考えてみます。

古代から近世にかけて、それほど大きな変化がなく受け継がれたということは、当時の人々の共通する価値観があるはずです。

そうなると、当時の人々の世界観はどんなものだったのか…を、改めて見ていく必要が出てきます。

長くなってしまいましたので、次回の記事では、「古代~近世の人々の世界観」を追いながら、行基図などがあのような形で描かれた目的について考えていきます。

今回で書ききるつもりが、予想より長くなってしまいました💦


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


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