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『あの子のこと』(52)「コピー」

「母さんはバカだよ、本当にバカだよ。美佐子と母さんは別の人格だって言うのに、そんな事すらついぞ分からなかった大馬鹿だよ」
 伯父からは母の七回忌の際に、母が祖母から受けていた虐待について詳しく聞かされていた。
 曰く、しつけと称してゴミ袋に入れる。髪の毛を無理やり引っ張って脱毛させたのにも関わらず、学校でのストレスで円形脱毛症になったと担任に怒鳴り込むなどなどなど――。

 友人も祖母が選別した人間以外は付き合いを許されず、思春期になってからも子供向けブランドの服しか着る事ができなかったそうだ。
 祖父が好きだったクラシック音楽でさえ、祖母が母にふさわしいと判断するもの以外を聞いていると口を極めて罵ったのだと言う。

『だってベートーヴェンのワルトシュタインソナタを美佐子が聞いてたら、そんなものを聞けと言った覚えはないって庭から母さんがすっ飛んできて美佐子を張り倒したんだもん。モーツァルトは聞け聞けってうるさいくせにさ。本当に母さんの基準が分からないんだよ』

 そんな育ち方をした女子中高生が同世代から奇異の目で見られ、いじめの対象にされるのは当然の帰結だったと伯父は語っていた。
「母さんは、父さんや僕が美佐子をかばうと余計に機嫌が悪くなった。美佐子を何日も無視したり、お前みたいなやつのあいさつなど聞きたくないと怒鳴ったり、美佐子に筋の通らない事ばかり注意しては、二律背反ダブルバインド状態にして混乱させていたんだ。それに美佐子がちょっとでもおしゃれをしようとした日にゃもう……」
 泣きはらす伯父の手元には、祖母の日記らしきノートが何冊も散らばっていた。

「母さんは、自分の虐待ぎゃくたいのせいで苦しむ美佐子を、闇に囚われた罪の子と見立てて『光の道へと導こう』としたつもりなんだ。なぜ美佐子は光の道を拒むのだろうって、そりゃ母さんが間違ってるからだよ」
 祖母から否定ばかりされて、消えたい死にたいと思いながら育った私が罪の子だったのではなく、祖母は人を育てる適性が無かったのだろう。

「僕は大きくなってから、父さんに離婚する気は無いのかって聞いたことがある」
「何と?」
「美佐子を守るために離婚は絶対にしないって。日本の司法は親権争いじゃ絶対的に母親有利な判断が続いてきたから、離婚したら父さんは美佐子のたてにすらなれなくなるから」
 私の質問に、伯父さんは真っすぐに私を見つめた。

「それで、母は名古屋の大学に」
「そうだね。美佐子をかばうには、当時単身赴任していた名古屋で美佐子と一緒に暮らすのが最良だと思ったらしい』

 母の遺骨と私を名古屋から強奪するように小平に連れ帰ったのは、自分こそが『光の道を行く』先導者であり真の親の姿であると自負する、祖母の心の叫びそのものだったのだろう。

 事故で両親を失った後あのまま名古屋の父方で育っていれば、私はもう少し伸びやかで大らかな人格になっていただろう。
 あのまま名古屋で育ちたかった。小平の家には二度と戻りたくない――。
 その言葉こそが光の道への教導者を自負していた祖母にとっては、耐え難い屈辱くつじょくだろう。

「母さんは自分が出来なかった事を美佐子に託したかっただけなんだ。例え血を分けた娘であったとしても、自分とは違う人格の持ち主だと分からなかったんだ」
 伯父が手にしたノートの表紙には昭和六十年二月~と祖母の筆跡が残されていた。

「父さんが美佐子に名古屋の大学を勧めたのはやっぱり正解だった」
「名古屋行きは反対しなかったんですか」
「父さんと同居だったし、名の知れたお嬢様大学だったから父さんがなだめすかしてね」
 伯父は母の幼い頃からの写真を数枚取り出した。

「これはゆいちゃんが持ってなさい。ゆいちゃんは捨てるのが得意みたいだけれど、捨てなくていいものまで捨てちゃダメだよ。美佐子の通信簿やら絵日記も全部母さんが捨てずに取ってくれてたんだけど、それはゆいちゃんが捨てるかどうするか決めてくれるかい。美佐子のたった一人の娘なんだから」
 伯父は薄黄色に変色した収納ボックスを指さした。
「分かりました」
 恐らく全部捨てるだろうなと思いつつ、私は収納ボックスを開けた。
 
「美佐子と母さんの着物が一杯あるけどゆいちゃんは着物に興味がなさそうだね」
「お義母さんは着道楽だったわよね。訪問着に留め袖に振袖に大島紬おおしまつむぎで商売が出来そうよ」
 伯母さんがため息交じりに首に掛けたタオルで額をぬぐう。

「着物や輪島塗わじまぬりなどは個人輸出に回してみると面白そうですよね。レコード類や時計にブランド品は、オークションや趣味の方が集まる所に出してみても」
 私の言に伯父さんは複雑そうな顔をした。

「それも考えたんだけど、家の取り壊しを考えると時間が無さ過ぎて。注文が入ってからいちいち梱包こんぽうして発送するのも手間だし」
 対して伯母さんはぱあっと瞳を輝かせた。

「どうせ毎日暇なんだからやっちゃえば良いじゃない。英語でやり取りすれば、働いていた時の感覚だって取り戻せるでしょう。ずっと家にこもってるからロクでもないことばかり考えるのよ。ついでにレコードの感想をSNSにまとめればお友達もできるかもよ」
「面倒臭いよ」

「着物はお金になりそうじゃないの。あなたがやらないなら私やるわ。英語のやり取りだけ手伝ってくれれば良いから」
「まったくその行動力を、ちょっとだけでも分けてもらいたい所だよ」
 伯父さんはぼやきながらも少し嬉しそうだった。


 
 結局母の写真数枚と母が録音したラジオのカセットテープと年代物のウォークマンだけをカバンにしまった私は、仏壇に再び手を合わせた。
「墓参りに行って帰りに何か食べよう。とその前に大事な話」
 居住まいを正した伯父伯母に私の背も自然と伸びた。
 
「この家の売却代金の経費と税金分を差っ引いた残りをゆいちゃんに渡すから。細かい修正はあるかもしれないけれど一応こんな感じで進めていこうと思う」
 伯父は数枚の書類を私の目の前に差し出した。

「お金でゆいちゃんの心が癒える訳じゃないのは分かってる。それでもこれから先ゆいちゃんが胸を張って明るく生きていくために必要なお金だと思うのよ。私たちは取手の家があるから気にしないで」

 私にとってあの日々はただの白昼夢に代わっていたが、伯父夫婦は私と祖母を置いて取手とりでに引っ越した罪悪感にずっとさいなまされていたようだ。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
 私の言葉に彼らは肩の荷を下ろしたかのような笑みを浮かべた。
 
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

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