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『愛がなんだ』 映画と小説の雑感

愛がなんだ、そんなもの!

この物語は恋の延長線上に愛があるとしたとき、その愛の延長線上を更に先にいく何かを描いている。そう読んで間違いないです。

私を捉えて離さないものは、たぶん恋ではない。きっと愛でもないのだろう。私の抱えている執着の正体が、いったいなんなのかわからない。けれどそんなことは、もうとっくにどうでもよくなっている。(211頁8行目)

勿論そんな感情に名前はまだない。
一般論では愛の範疇に入るのかもしれない。

ここでは映画と小説、本来であれば小説と映画と書くべきですが私が映画を先に観たので、を比べながらこの物語の感想をツラツラと書いていきます。

個人的な感想です。
映画を観てから本を読み終わるまで少し期間が空いてるので映画の記憶があやふやで間違っている部分があるかもしれませんがご容赦下さい。

恋人の定義について

我々は何をもって付き合ってると呼ぶのか。
私個人の意見としては、ある種の契約関係で、その契約はある種の宣言によって締結されるものだと思う。
勿論その宣言とは好きだ。

映画の中でテルコのモノローグでその契約がなされないことについて、こう語られます。

20代後半の恋愛なんてこんなものだ。

良くないけどなくもないかな、なんて思ってたら続いてこう。

私はいまだにタナカマモルの恋人ではない。

これは映画としての宣言でもある。
この映画はある男の彼女になりたいけどなれない女の物語だよ、と言う。

ゲーーって思ったね。
そして別の映画を思い出した。

『寝ても覚めても』
東出昌大が2役演じたこの映画は、本当にクズな女に男が振り回される映画で、好きな映画ではないけど面白い映画です。
クズっぷりが半端ないのでまだの方は是非。
こちらも原作小説がありますが私は手を出してません。

ゲーーって思ったのは面白いだろうけど好きな映画ではないだろうなと思ったから。
特に男がクズだと必要なく罪悪感を覚えるんだよね。何故か。

世界中のクズに代わってお詫び申し上げます。
誠に申し訳ありません。
ちなみにクズを代表してお詫びしているわけではないのでそこは間違えないで下さい。

最初の宣言に戻るんだけど、テルコは感覚的には私と似た定義を持っていて、自分でも彼女ではないという自覚があるんですよね。
いやぁ残酷だぜ、角田光代。

クズは誰だ

別の映画の影響もあり、てっきり田中守のクズっぷりを楽しもうと思って映画を観てたんですが、ちょっと様子が違うんですよ。

・セックスはするけど付き合ってはない
・夜中に呼び出して終電後に追い出す

この辺りのエピソードはここだけ切り取るとクズの要素たっぷりなんだけど文脈を考えると何とも言えません。

前者はさておき、後者はテルコに原因があるしね。
食べるもの買ってきてと頼んで、食材買ってきて料理するところまではいいとして、お風呂のカビ掃除までしないでしょ。
後々あの時作った味噌煮込みの匂いがダメだったと語るけど、塩素系のカビ落としの匂いのせいもめっちゃあると思うね。

何より一番違和感あったのは、テルコの家で言ったこのセリフ。

「山田さん、やらせて」(146頁3行目)

衝撃的ですよね。
ギャグの世界でしか使われないセリフだと思ってました。

ちなみにここ演出が小説と映画で若干異なるので見所の1つですね。

小説では床に寝そべってる田中守が冷蔵庫にビールをしまうテルコを見ようともせず言っているのに対し、映画ではバックハグをしながらのセリフになっています。

セリフの後のリアクションも映画では少しうつむいたまま固まるんですが、小説では「やらせてやろうとも」と心の中でつぶやき床に寝そべる田中守をベッドに引き上げます。

今泉監督は優しい人なんでしょうね。

角田光代は振り切ってますね。田中守のセリフもすごいですけどその後のテルコもテルコらしさを出しててすごくいいですよ。

テルコについては後述するので田中守のセリフに戻ります。

ひょっとしたら言ったことある人も、言われたことある人もいるかもしれませんが、まあこんなセリフあり得ないですよね。
ちなみにクズだったら何も言わないと思います。

じゃあ何でこんなこと言ったのか。

田中守はクズではなくカスなんですよ。
それもチンカスの類いですね。

このあとの田中守は結局勃起せず、更に自分を卑下し始めます。

「やさしいかっつったらたぶん無神経でやさしさとかけ離れてるんだろうし、金持ってるわけでもないしさあ。仕事できるかって、それもごくごくふつうだと思うよ。もしくはふつう以下。三十三歳になったらやめるんだからさ、そういうつもりでやってるんだもん、人より仕事できるわけないやね。なんか秀でてる才能とかもべつにないじゃん。自分のこと、ズバリださいとは思いたくないけどさ、でも世の中の男をよ? かっこいいとかっこ悪いに二分したら、おれぜってえかっこ悪いに分類されると思うわけ、な」(148頁1行目)

このセリフを成田凌に言わせるのかってのはさておき、ほんとカスみたいなやつですね。驚くべきことに三十三歳で辞めて○○になるってのは本気だったんですね。厨二じゃねーか。

ところでクズとカスって言葉って似たような言葉なんでここらで個人的な使い分けを示します。

クズ:ダメな自分に自覚あり、けれど罪悪感なし
カス:ダメな自分に自覚なし、ゆえに罪悪感もなし

ここで言う『ダメな』とはスペックではなく、行為のことを指してます。
鬼畜と馬鹿って言い換えてもいいです。
まあ主観ですけど。

本筋に戻ります。

要は田中守は自分でしてることの意味をわかってないんです。わかってないと言うよりは何も考えていない、が正解かも。テルコとのセックスも間違いなくオナニー代わりにしてると思っていいです。

映画ではカットされてますが、田中守は

前戯ねちっこくてエッチ下手でチンコちっこい(122頁11行目)

と描かれています。

サイズはともかく前2つは当然でしょうね。だって自分が気持ちよくなりたいだけですから。

すみれにも当然見抜かれます。

実際あの子って自分系じゃない? 自分が世界の中心って感じの。(157頁2行目)

余談ですが、演じる成田凌はそんなことのないキチンとしたいい男なので、ついエスコートしてしまってカス男としての演技を厳しく指導されたとのことです。

そのエピソードが本当なら、あの「追いケチャップ」は成田凌のアドリブじゃないかな。小説にはないし。男の俺でもいいなと思ったから、女性には、特にファンにはたまらないシーンじゃないですかね。
全然田中守っぽくないですけど。
つい出てしまった成田凌味を、それでもいい雰囲気過ぎてカットできなかったんじゃなかろうか。今泉監督は。違ったらごめんなさい。

とにかく田中守はクズではない。

じゃあ誰がクズなのか。おわかりですね。そうです。テルコです。

クズ女、テルコ

マモちゃんと会って、それまで単一色だった私の世界はきれいに二分した。「好きである」と、「どうでもいい」とに。(中略)「好きである」ものを優先しようとすると、ほかのことは自動的に「好きなものより好きではない」に変換され、つまりはどうでもよくなってしまうのだ。(中略)
皮肉にも、会ったばかりのころのマモちゃんは毎日のように電話をよこし私をデートに誘っていたから、私はずいぶん不道徳なことを続けたのだろう。(25頁7行目)

さてどのくらいかと言うと以下が勤務態度
・携帯電話の電源を切らない
・切らないどころか鳴れば出る
・内線がなっても無視して通話
・時には長電話
・用もないのに残業
・みんなが残業してても定時退社
・時々は定時前に退社
・遅刻も数限りない
・化粧もしない
・かと思えばトイレに込もって化粧

そしてこちらがドタキャンリスト
・何ヵ月も前から予約してた有名イタリアン
・苦労して手に入れたバーゲン入場券
・サッカーのチケット
・芝居の前売り券
・京都一泊旅行
・半年前から計画していた春休みのバリ旅行

いやぁこの社会性の欠如はヤバいですね。映画では描かれていませんが、一人公園で食べるランチではいつも缶ビール飲んでるみたいです。

でもこのリスト見て気付きませんか?

そうです。元からテルコの主体的なものではないんですね。同僚の女同士内でのイベントであって、あくまで誘われているものなんです。
その証として田中守と出会うまでを単一色(25頁7行目)と言い切っています。小説では高校時代のクラスメイトという山中吉乃という登場人物が出てきますが、彼女にしても、さほど仲がいいわけではない(67頁5行目)のです。
唯一友達と呼べるのは葉子だけでしょう。

不愛想で反応が遅く、ぼうっとして、すべてに無関心で、根気もなく、世界の外に突っ立っている、というのが、学校という場所でなされる私への評価だった。(中略)
ぼうっとしてるなんてとんでもない、反応が早く行動的で、強引で、頑固で、忍耐強く、ものごとに執着しやすいと私を評するのは、私が今まで好きになった三人の男だけだろう。大学生の時の恋人だった矢田耕介、マモちゃんと会うころまでつきあっていた妻子もちの男、それからマモちゃん。(69頁14行目)

友達に見せる自分と恋人の前での自分にギャップがあるのは一般的であると思うんですが、テルコの場合はかなり極端ですね。元から何もかもが「どうでもいい」だったに間違いありません。
でなければいくらなんでも仕事中の昼休みに缶ビール飲まないでしょう。

また、友人関係が希薄のわりにマウンティング体質なのも面白いですね。田中守とのデートも必ず、「仕方ないから付き合ってあげる」体裁ですし、すみれの本音に気づいてからのすみれを見る目もそうです。
ここでは割愛するので是非小説読んでください。

しかし何といっても一番はナカハラとの関係ですね。葉子にはナカハラとの関係を説教しながら、ナカハラに対しては終始、「友達のパシリ」という目線が消えません。今泉監督はこの関係性をかなり丁寧に描いているので映画をこれから観る人はセリフだけではなく二人の立ち位置等もよく観察してください。酷すぎるゾ、テルコ!

もうひとつ酷いのは神林に対してですね。
神林と言うのは、田中守との恋人関係を諦めたテルコが、それでも田中守とのつながりを求めて田中守の友達という関係を目指すべく、紹介された人です。
私だったら何度もセックスしている女を仲いい友達には紹介しませんが、田中守はバカなので仕方ありません。
しかしその上をいくバカさ加減ですね、テルコは。神林に対する人としての尊厳は完全に無視です。

思いのほかうまくことは進むかもしれない。焦げ茶眼鏡の好青年に私はまったく興味が持てないが、けれどきっと寝ることはたやすい。何しろ、彼とともにいるかぎり私は永遠にマモちゃんを失うことがない。(210頁14行目)

でもね、テルコ。洗濯もの、段ボールに詰めて実家に送ったり(208頁3行目)するやつは絶対クズだぞ。そしてクズで高収入だとクズレベルも相当高いからな!

「てゆーか、神林くんてまじで彼女いないの? なんで? 特殊な趣味?」
「いやこいつ、ほんっと忙しいんだって。な? 洗濯もの、段ボールに詰めて実家に送ったりすんだぜ」
「田中君に訊いてないよ、私はこの人に訊いてんの」
「うわ、なんだよすみれさーん、冷たいじゃん、今日ー」
「田中くん、ちょっとビールないから焼酎頼んで、ボトルでいいよ」(208頁2行目)

お気づきでしょうか、神林本人が彼女いないと言っていないことを。これ彼女いるパターンです。間違いありません。

映画のラストシーン、テルコはいつかのデートで田中守が言った三十三歳になったらシリーズの一つである像の飼育員としてのカットで終わります。
小説にはなく、田中守への執着を気持ち悪いほどに表す素晴らしい演出です。今思い出しても鳥肌が立つほどの。
そしてこれはもう一つの事を表しています。つまりは神林との関係がうまくいかなかったということです。
何度かセックスだけして捨てられたのでしょう。ま、あたりまえですけど。

省略しちゃいましたけど健康ランドの同僚に対する態度も酷いので、映画で楽しんでください。片岡礼子が演じるリアクションは特に必見です。

葉子とナカハラについて

葉子もなかなかのクズですが、テルコに対する友情はなかなかないものを持っています。深夜だろうとタクシー代を出してまでテルコを向かい入れるし、元気がなければ家に様子を見にいくし、田中守にも電話するし。

ところでこの電話、映画では今泉監督がなかなかいやらしい演出を挟みます。
小説ではないシーンなんですが、テルコは葉子に対しナカハラの態度を改めろと詰め、二人は喧嘩別れしてしまいます。
果たして葉子からの電話はこの喧嘩の前だったのか、後だったのか。
テルコに唯一の友達を失ってほしくないという思いで後だと信じたいのですが、像の飼育員の画の寂しさは喧嘩の前でそのまま物別れになったような気にさせます。
こんな演出ズルいよ、今泉監督っ!

そんなクズとカスばかりのなか、唯一の救いがナカハラです。
映画でも画面にナカハラが出てくると何だかホッとします。今年の日本アカデミー助演男優賞待ったなしですよ、若葉竜也。
小説と映画では、ナカハラが葉子を諦めるきっかけが異なっています。何しろ小説では別荘にナカハラはいかないので。
それで言うと映画の方がしっくりきます。そして小説では「幸せになりたいっスね」とは言わないし、唾も吐きません。やっぱりテルコのマウンティングが嫌だったんでしょうね(笑)。
かわいそうなナカハラに今泉監督は同情したのか、最後にご褒美を与えてます。つかの間の幸せかもしれませんが、あの時の表情もすごくいいです。

映画と小説と

たいていは原作ものの映画って、なかなか原作の面白さを越えられないんですが『愛がなんだ』についてはどちらもそれぞれ面白いです。直木賞作家に負けず劣らずの演出ができるとは、今泉監督の今後に期待大です。監督作初見だったので他のも観てみます。
なんと次回作は伊坂幸太郎ですか。必見ですね!

余談ですが、映画のポスターになっているシーンは映画に出てきません。二人が初めて会ったシーンの帰り道と思われます。
撮ったもののカットしたのか、ポスター向けに撮ったショットなのか気になるところです。

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