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絵本はもう読まないのよ (月曜日の図書館216)

小学校中学年くらいになると、本を読まなくなった。別に本と訣別する!と思ったからではなく、単純に読み聞かせから卒業したためである。

小さいころは親が絵本を読んでくれて、ただそれを聞いていれば本の世界に入って楽しかった。ところが年齢が上がるにつれて、本は自分で読むものになっていく。

自分でページをめくって、字を追ってまで、読書というのは楽しい行為だろうか。わからない。眠る前に布団の中で読み聞かせてもらうという時間そのものが好きだっただけのような気もする。

だったら、まあ、読まなくてもいいか。本棚に詰め込まれたままの本を見て、赤ちゃんのころから続いていた「本の定期便」も購入中止にされた。

けれどその数年後、〈ナルニア国〉シリーズに出合い、わたしはあっさり読書を再開する。あ、やっぱり読書は楽しいんだ、と”発見”したからだ。

当時、田舎に住んでいる非活動的な子どもにとって、読書は唯一自分で得られる楽しみだった。インターネットもなかったし、クレジットカードも使えない、レジャー施設に行くには大人に頼らないといけない。

本は、自分で読みさえすれば、いくらでも楽しい世界を味わわせてくれる。

定期便はもうこないので、図書館でどんどん借りた。その頃は本がどんな順番で並んでいるかも知らなかったので、目についていいなと思った本を手に取った。中にはハズレもあったが、読みたい本を自分で選べる、というのがうれしかった。

不思議なことに、同じ児童書のフロアにあった絵本には全然興味がなかった。たぶん、働きはじめるまで一度も手に取らなかったと思う。

理由はよくわからない。絵本は小さい子が読むものと思っていたのか、というと決してそういうわけではない。文字を読んで、そこからあれこれと頭で想像することに楽しさを見出す、そういう時期だったのかもしれない。

大人になって改めて絵本を開いてみると、子どものころとの受け取り方があまりにも違っていて驚いた。親に読み聞かせてもらっていたころは、その作品の世界に丸ごと飛びこんでいるような気がしていた。絵のひとつひとつが、細かいところまで目に焼きついて、時間が経ってもまったく色褪せなかった。

それなのに、絵本は、もうわたしに何の秘密もささやいてくれないし、楽しい世界に誘ってもくれない。中からあふれてきそうで怖かった絵も、今はしっかり紙の中におさまったままだ。

理由はわたしの想像力が枯れたから、ではなく(ないと信じたい)、単に子どものころと大人とで、物事の見方が変わったからだろう。絵本の魔法が一番強力にかかる時期というのがあって、わたしは幸運にもその魔法にかかって幼少期を過ごすことができた、というだけだ。

今は職業柄、子どものころのままとは言えないまでも、「想像力をかき立てる」とか「躍動感がある」とか、ある程度までは絵本を評価できるようになった。この場面で、子どもはきっとこう思うだろう、と推測することもなんとなくできる。

難しいのは、大人向け、ティーン向けの絵本の評価だ。中高生向けのブックリストを作る際、変化球的に1冊は絵本を入れることが多い。ある程度年齢が上の子向きの、字が多く、扱うテーマも複雑、という作品だ。

けれどこれをおすすめされたとき、10代のわたしなら読んだだろうか、と疑問に思うことがある。小さいころはうれしかった挿絵が、逆に思考の妨げになることはないだろうか。この世代の利用はそもそも多くないので、実際どうなのかはわからない。

大人に絵本、というのも難しい。時々ファッション誌の企画などで、大人も絵本を読んで癒されよう、というようなものがあるが、絵本に癒しを求めるのは筋違いだ。

血湧き肉躍り、ときには命も危ういほどの体験、だけど自分を守ってくれる人がいっしょに読んでくれるから大丈夫。絵本はそういう、手に汗を握りながら、同時によし、この世界で楽しく生きていくぞと決意するような、力強いものではないだろうか。

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