第27段 御国ゆづりの節介おこなはれて。

徒然なるままに、日暮らし、齧られたリンゴに向かいて云々。

今の自分を作るのは過去の自分だ。いくら今この瞬間を生きると決意し過去を振り切ったとしても、なんらかの事象をきっかけとして過去は自分自身に追いついてくる。そして気がつけば過去の闇に呑み込まれ、溺死寸前まで追い込まれることになる。一昨日のことになるが、東京の武蔵五日市にある、南沢あじさい山へ出かけてきた。親友K
と一緒に、撮影がメインだったが暑さのせいもあってか、途中から本気でハイキングしたくなりカメラもそこそこに本気で山登りをした。あじさい山は読んで字のごとく、どこもかしこも急斜面だらけの"山"だった。本当はスニーカーで行くはずだったのだが靴擦れが原因となり履き慣れたブーツで現地へと赴いた。結果としてブーツで行く場所ではないと若干の後悔をしたものの、それすらも凌駕する圧巻の光景を楽しむことが出来た。崖の上に密集して咲くあじさいは、一人の男性がただひたすらに植え続けたものであり、その数1万株を超えるという。都会の真ん中でみるあじさいは儚げで美しい、という印象が強かったがここで見るあじさいはその一つ一つがたくましくそしてやはりどこか血を感じる生命力があった。久しぶりに全身で浴びる自然の匂いはたまらないものだった。無条件に『ああ、生きてきてよかったな』と感じることができた。気がつけば久しくこの想いに触れていなかったような気がする。どうも創作活動ばかりにかまけていると、本来の意味を見失う。生きる意味、命の意味、そういったものに自然と蓋をし、そして目を背けるようにして粛々と生きていくようになる。そうして気がつけば自分自身が世界で一番大きな存在となり、本来の輝きを失っていく。世界は一人で成り立つものではない。世界は、自然界は、宇宙は総てが循環と畏敬で成り立っている。そのことを忘れずにいられることは、思い出す心があることはとても幸せなことだと改めて感じた。飽きるほどあじさいと戯れたあと、私たちは池袋へ移動しずっと行きたかった中華料理の店へ赴いた。飲茶をたらふく食べた後、解散するために駅へと向かった。池袋駅には人生で3度か4度くらいしか来たことがない。特段行く用事がなかったということと、何とは無しに『危ない』という印象が強かったためだ。だからなのか、あの駅の大きさにはいまだに度肝を抜かれる。出口があまりにも複雑すぎてまともに待ち合わせ場所に辿り着けたことがないのも事実だ。Kとぶらぶら歩きながらしばらくして、私はある衝撃的な光景に目を奪われた。最近は気温が高くなってきたからなのか、駅のいたるところにホームレスの人がたくさんいた。心なしか女性が多かったように感じたのだが、その中でも群を抜いて目を引く人物がいた。彼女は改札近くの広間に大の字になって寝転がっていた。顔は穏やかそうに、それでもにかっとしながらいびきをかいて眠っていた。しかしその体は、腕から胴の部分まで炭のように真っ黒な皮膚で覆われていた。あまりにもその光景が衝撃的で、いまだにまぶたの裏に焼き付いている。私の家の近くにもホームレスの人はたくさんいる。特にこの季節、橋や駅のそばの公園などには女性のホームレスの人もたくさんいて、たまに目が合うと話をしたりすることもある。その昔、近くの喫茶店でアルバイトをしていた時などは、余ったサンドウィッチなどを彼らに渡していたこともある。毎回私が同じものばかりを持ってくるので『ねえねえあんた、悪いけどさ、何か他に甘いものはないの?もうこの卵サンド飽きちゃったんだけど。』とリクエストされたこともあった。運が良ければケーキなどももらえたので、タイミングがあった時にはいちごのケーキなどを差し入れした。その時は珍しく喜んでくれ、『あんた、たまには役にたつのね。』と言われたことを覚えている。不思議な話だが、あの時はどこか私も彼女も同じ地球上の生き物になったような気がした。そう思うと心底嬉しかった。大袈裟かもしれないが、世界中で本当に話ができるのはわたしと彼女だけのような気もした。ミッション系の学校に通っていたので昔から比較的ボランティアをする機会が多かった。老人ホームや山谷などにも頻繁に赴き、よく炊き出しをした。老人ホームは嫌いだったが山谷は好きだった。ホームレスの人とはいろんなやり取りをしてきたが、それでもやはりどこかで『私は施しを行なっている』だとか、『いいことをしている』という思いが頭や心の片隅にこびりついていてことあるごとに不快になっていく自分がいた。それのせいもあってか、わたしは極度のボランティアアレルギーとなりその話を聞くことも実際に自分が参加することも嫌いになっていった。だが世の中というのはそれでぷっつり縁が切れるものでもない。何とは無しに、やはり彼らとは一番わかりあえるような気がして、話をする機会があればできるだけするようにしていた。不快な思いとどう付き合っていけばいいかわからなかったが、それでもわからないならわからないなりにそのまま一生付き合っていくのも一つの答えかもしれないと思っている。話は逸れてしまったが、兎にも角にも私はあの池袋の、彼女の姿が忘れられず、そしてそれと同時に自分自身が社会から『分断』されているような印象を受けた。厳密に言えば分断されているのかもしれないし、自分自身が分断しているのかもしれない。そんなことを考えたら居ても立っても居られなくなり、何かをしようと考えた。本当は彼女のために何か、その時に話しかけるなりなんなりすればよかったのだがそれはできなかった。自分自身の勇気がなかったことが大きな原因のひとつだ。今日再び池袋駅に赴いたが、彼女は同じ場所にはいなかった。私は一生に一度のチャンスを逃したのかもしれない。話を戻すとそのせいもあってなのか、結局私はボランティアをすることにした。山谷に行こうかとも思ったが、最近ひまわりのおかげなのか子供に興味があるので『子ども食堂』でボランティアに参加させていただくことにした。近所のところにまずいってみて、それから色々考えて場所を変えるなりなんなりしようと思う。そこの食堂は電話で問い合わせをするしか方法がなく、嫌悪感や猜疑心や過去の劣等感みたいなものが一瞬にして噴き出してきたが結局は『やりたい』という思いが勝ったのでそのまま勢いで電話をした。受付の方はとても感じの良い方で、『学生さんですか?』と聞かれた。『いえ、学生はだいぶ前に卒業しました。今は社会人です。自営です。』と答えたのだが、社会人てなんだよ、と言いながら思ってしまった。自分が情けなかった。『まあ、それはそれは、お忙しい中ありがとうございます。』とお礼を言われ、そのまま当日の説明を受けた。正直なぜそこまでお礼を言われるのかもよくわからなかったが、それでも電話を切った後は意外にも清々しい気持ちだった。何も実質行ってはいないのだが、すでに自分の中では始まっているのだと思った。とは言え、今書きながらやはり複雑な気持ちもたくさん蘇ってきた。だが私は自分がやりたいと思ったことに正直に従い突き進む人間だ。だからこそ後悔は全くしていない。むしろこれからの人生がより楽しみになってきた。人間は何かを猛烈に欲しすぎると不幸になる。無いものばかりに目が行き、そして自分自身をひどく責め立てて生きていくようになる。だが、そうではなくもしも自分が何かの役に立てるのかもしれないと思った時、その心は一瞬にして華やぎ、そして生きるエネルギーに溢れてくる。『誰かのために』と思いすぎることは嘘臭くて嫌いだが、それでも『やりたい』と強く思ったならやはり行動に移すべきだ。自分を糾弾するのはそのあとでいい。加山雄三も言っていた。彼は経営していたホテルを潰し多額の借金を抱え、そして自分自身も除雪車に轢かれ脊髄損傷するほどの大怪我を負っていた時期がある。その時のインタビューで彼はこう答えていた。『自分が辛いと思う時こそ、周りを見る。周りのことを考え、行動する。そこにしか幸せはありません。私は今それを学んでいるのです。』何度書いても難しい話で、賛否両論あるだろうなと思う。そして偽善者だの、徳が高いだの揶揄されるのだろうと思う自分もいるのだがそれこそが私が信じてきた教えではないかと思う。自分自身の持つ能力を活かして、そしてそれを存分に発揮して楽しんで生き切る。そのためにはやはり一人で生きていくことはできない。私は愛することをやめたくない。愛することをやめられない。だからこそ、とことんまでこの世界と関わっていこうと思っている。その時初めて、私は神の道具としてこの世で本当の働きをすることができるのだ。


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