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食材を醸す技④ 西洋風食品の誕生

明治時代を迎え、政府による欧米文化の移入や富国強兵政策のもと、栄養や滋養という概念が国内に根づいて食の多様化が進み始める。こうした中、愛知でも多彩な西洋風食品が誕生していった。

明治20年、小鈴谷(常滑市)の事業家・盛田善平は、中埜酢店(現ミツカングループ)店主・4代目中埜又左衛門とともに丸三麦酒醸造所(後の加富登麦酒)を半田に設立し、国産ビールの生産を開始する。同20年代後半には、ドイツ製ビール醸造機の導入とドイツ人技師の招へいによって品質向上を図り、同33年のパリ万国博覧会で金牌を受賞するまでになった。さらに善平は同32年、製粉事業にも参入。当初は綿糸の糊付用の小麦粉を手がけたが、大正8年にはドイツ人技師からノウハウを得て、国産初となるパンの工場生産を開始した(敷島製パンの創業。名古屋)。当時米騒動が全国に拡大しており、パンが米の代用食となると考えたうえでのことだった。

カブトビールのビアホールを再現(半田赤レンガ建物《旧カブトビール工場》) (webサイト Aichi Now より)

また、明治32年より西洋野菜の栽培を行っていた荒尾(東海市)の栽培農家・蟹江一太郎は、当時アメリカで一般的だったトマトの加工食品に着目、同36年にトマトソースの生産を開始した。その後、同41年にトマトケチャップやウスターソース、昭和8年にはトマトジュースも製品化し、国内洋食市場の拡大に貢献した(大正12年、愛知トマトソース製造《現カゴメ》として法人化)。 

あるいは、この時代より乳業が全国的な普及をみている。愛知における嚆矢は、明治10年代、名古屋の星野七右衛門、堀傳六郎らが養牛舎や牧場を開設して行った搾取業で、やがて名古屋近郊や知多半島・渥美半島などへと拡大していった。
知多半島では、先ほどの4代目中埜又左衛門が明治14年頃より自家消費用として半田で酪農を開始(知多の乳業の嚆矢)、後に瓶詰め牛乳の販売やミルクホールの経営などを手がけた。昭和9年には、中埜家ほか地域の乳業者らが結成した組合の経営に移行し、地域の乳業の拡大が図られている。
渥美半島では農村不況対策として、大正14年、現在の田原市を中心に搾乳業が始まった。昭和2年には牛乳やバターの加工工場が建設され、後にクリームの生産も行われるようになる。そして同12年、本格的な乳業工場・中央製乳が高師(豊橋市)で創業し、粉乳や粉ミルクの生産を開始、渥美の乳製品バリューチェーンが完成した。


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