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「虹が立っていた」という言の葉から想うこと

はじめに

約一年前、こんな記事を書いたことがある。

「濁水に浮かぶ」は現在音源の形になり、雨や雨のライブ会場、通販などで販売されている。音源になった時点で、「歌詞」も読み解けるようになり、私がこの記事の中で書き起こしを試みた歌詞の書き起こし間違いも自分でわかっている。雰囲気は書き起こせているのだが、ところどころ、配信ライブを聴いただけでの全ての網羅は不可能であった。

盛大に間違えた一番の箇所は、私にとってここだ。
「虹が立っていた なんで?」
「なんで?」は、あの時確かに歌われていなかった気がするのだが、アーカイブ期間などとっくのとうに終わっている為、確認するすべがない。
私は「虹がかっていた」と聞き間違えており、自分詰めが甘いな・・・と思ったりもするのだが、「虹が立っていた」という言の葉と、「濁水に浮かぶ」という楽曲について改めに想いを馳せることにした。

「なんで?」

「なんで?」がお披露目の配信ライブで歌われていなかった気がする・・・と思っているのは、そのあとライブ、配信などで「濁水に浮かぶ」が披露された時の、ボーカルのHitomiさんの表現が強く、その衝撃を書き起こした時に受けた記憶がないからである。
音源では「なんで?」はそこまで主張されず、さりげなく流されるように歌われているのだが、ライブではかなり強く「なんで?」というよりは、
「なんで?!!!!」くらいに強く表現される。歌うというより私には叫ぶように聞こえるのだ。
「虹が立っていた」ことに恐ろしく疑問の思考が生まれていると捉えている。

「虹が立つ」

私の知識のなさなのだが、今まで「虹が立っている」という表現を使ったことがなかった。虹は「かかる」ものだった。
なので「虹が立つ」という言葉で、検索をかけてみた。どういう場合に使われる表現なのか。様々な考えがあり、一つには絞れなかったのだが、いくつかあげたい。
・古い表現という説
・「蟲師」第七話の副題「雨がくる虹がたつ
・「虹立つ」=夏の季語
印象に残った3つがこれである。
古い表現、に関しては「最近は高齢者がよく使う」というものであったが、それは例えば近親者のご高齢の方がよく使う表現ならその影響で誰でも使う表現になり得ると感じる。日本語というものはどんどん変化し、辞書も時代によって変わって行くものだ。古い新しいの問題ではないと思うのだ。
「蟲師」については知識がないため省略する。
最後、「虹立つ」が夏の季語であるということだ。確かに虹、というものは夏によく見るイメージだ。大雨の後、日が射した瞬間に見る。
ここでそもそも「虹」とは何だったか・・・という疑問が浮かんだので、これも「虹」を調べてみることにした。

一言でいうと、「大気化学現象」らしい。文系育ちの為、全く理解できないので、虹の構造については端折ることにする。
虹は、中国では「蛇や竜の一種」と見なす風習があるらしい。
「月虹」・・・興味深い。一ヶ月のうち満月の一日だけに、月の出と月の入りのときにしか見られないものらしい。私自身見たことはない。
・・・ただこれに近いものをなんとなく見た気がするのだ。

虹が立っていた

虹が、蛇や竜の一種と見なされる風習については先程明記した。
ここから、虹についての論理的な考え方から、創造に話が転換するので、読んで下さる方がいらっしゃったら頭の切り替えが重要だ。

心を読み解く

「濁水に浮かぶ」の歌詞を書かれた「雨や雨」のボーカル、Hitomiさんの歌詞に私が強く惹かれる理由は自分の中でまだ解析できないところで、度々記事にも書いているのだが、彼とはまだ私が「子供」の時代である時に、本当に偶然にライブを観て、こんなに長期間拗らせる(この表現以外思いつかなかった)とは当時思っていなかった。事故だ。彼との出会いなどそもそも大事故なのである。彼の歌詞が私の人格形成に大きな影響を与えたのは間違いない。
出会いなんて、続けば楽しい時、辛い時、出てくるものだが、彼を見てきて今まで「辛い」という感情を持ったことは一度もない。神様の仕組んだ幸運な人生一番の大事故くらいに思っている。
彼が歌えば(昨今ライブの配信が多くなり可能になったことだが)だいたい何時間かけてでも歌詞の書き起こしに執着してしまう。音源発売まで待てない性分なのだ。そして書き起こせずに諦め、挑み、を繰り返してアーカイブ期間が終わる。
彼は人の心を先読みする、と最近思う。
あ、あの時歌っていたことはこういうことか・・・と後で感じることが多くなった。心を読み解かれている。もちろん、Hitomiさんはそんなことを考えて歌詞制作に向き合っているわけではないと断言できるのだが・・・。
思考が似ているのか・・・くらいには思う。
ここで「虹が立っていた」話に戻りたい。

「虹が立っていた なんで?」

そのままが私の気持ちそのものであり、「濁水に浮かぶ」の本来の歌詞を読むと本当にそのままなのだ。作詞者と私は違う次元から捉えている為、私なりの捉え方がそうなってしまっただけだと思う。
また事故だ。大事故。冬に虹を見るなんて大事故と思わないか?月虹なんて見たことなんかないのに、真冬に月虹を見てしまった。
真昼の月のはずが、宵の三日月だった。
宵の三日月のはずが、月に一度の満月の、月の出と月の入りにだけ見ることができる、月虹だった。なんで?
「虹が立っていた なんで?」のその後の歌詞はこうだ。

虹が立っていた なんで?
光差してきた 曖昧だった水底は透け
僕を待っていた 残酷すぎた現実を添え
少しほっとして 首から落ちたツバキを浮かべ
「透き通ったから」もう行くね

虹を見たからと言って、現実は残酷。
透き通ったら、行ってしまうのだろう・・・なんて考えたらドツボにハマるしかない。「なんで?!!!」ばかり思うし、その癖、特にその答えは求めていない。
行ってしまうときに思いつく言葉など何もない。さよなら、すら言えないことが既にわかっているからだ。

「濁水に浮かぶ」

結局私にとってこの「濁水に浮かぶ」という曲が何を持って心に植え付けられているのかと言うと・・・。

・・・誰も理解できない、誰からも理解されない「愛」とかなんとか云うような曖昧な感情の話なのだと思う。
私のしんどい気持ち、辛い気持ち、幸せな気持ちを暴き出す歌詞。

それが私にとっての「作詞家」「表現者」「ボーカリスト」としての彼なのだろう。

続き

「濁水に浮かぶ」という音源は、3部作の2番目に位置されている。
1番目は「雨に沈む」だった。
「雨に沈む」「濁水に浮かぶ」
恐らく、3番目は「あい飢えを」なのだと思う。ライブで一度だけ披露されており、表題曲になるのかは今の段階で私にはわからない。
ただ、「あい飢えを」の歌詞(私の書き起こしであるが)との関係性を全く理解できず苦しんでいる。早く3部作の最後の作品を聴きたい。そして、レコ発ツアーがついたら最高の3部作のしめ方だと思っている。
きっと私には想像できない盛大なトラップが企画されていると勝手に信じて期待しているのだ。

「愛」などという曖昧で理解すらできない掴みどころのないものに。
・・・それのみに、3部作の3作目で、作詞者であるHitomiさんの「アンサー」はあるのだろうか、と想いを馳せてやまない。

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