見出し画像

生と死、そしてエロティシズム。私は如何にして今の性癖に至ったか。

性癖と言ってもその性癖すべてに性的興奮を覚えた訳ではないことを始めに明記しておく。
センシティブかつ特殊な内容を含むため、閲覧注意。特に神経質な方は閲覧をおすすめしない。

幼いころから私は好きなアニメのキャラクターの『もしも』を想像することに耽っていた。
その想像した『もしも』は決して幸せな話ではない。
誰にも打ち明けられない秘密を抱えて戸惑いや葛藤を感じている、そんなシチュエーションが多かった。
私が幼い頃想像したもっとも古い『もしも』はというと、手塚治虫のブラックジャックだ。
当時リメイクのアニメが放送されていて私はブラックジャックの憂いを感じさせるかっこよさに惚れたのだ。
中でもブラックジャックが自分自身を手術するシーンは興奮した。性的興奮ではないが、官能的に感じたのは間違いない。
『もしも』の話に戻そう。
私はブラックジャックについてどんな想像をしていたのかというと……

ある日間違えて調合した薬を飲んだブラックジャックはレントゲンで自身を撮影する。
すると写真のお腹の部分に映っていたのは卵らしきものだった。しばらくして産気づいた彼は誰にも見つからぬようにと崖の下へ降り、一人ひっそりと声を洩らしながら産卵した……。

というなんともトンデモ設定で楽しんでいたのだ。このとき私は小学校低学年くらいである。
産卵――私は特にこのシチュエーションを好み、自分の描くらくがき漫画でも好きな男性キャラクターには産卵させていた。
同じ時期にハマっていた性癖はもう一つある。病院のベッドの上で酸素マスクをつけて消え入りそうな呼吸をしている、というシチュエーションだ。
この二つのシチュエーションに共通しているのは『苦しみ』と『命』である。命を産む苦しみ、そして命を繋ぎとめる苦しみ……。


好きの反対は嫌い、生の反対は死であるように、人は物事のひとつの局面を理解しているということは反対の局面も無意識のうちに理解しているのだと思う。
私は初めに生命の始まりの虜になった。それは同時に生命の終わり、死に興味をもつことであり、必然だったのではないか。
私は生と死が何よりも好きだ。
何故か? 幼い私は分からなかったが、大人になった今色んな本を読んで気づいた。
『エロティシズム』を感じていたからだ。
エロティシズム、それはバタイユという『眼球譚』の著者で有名な彼の解釈だ。
私の生と死に魅了された理由はバタイユの云うエロティシズムに最も近いのではなかろうか。

私が死にこだわるようになったのは十代後半になってからだった。
その頃の私は、一般的に言う情操教育に良くないものばかり見ていた。
猟奇的なエロのイラストや漫画を特に好んでいた。(氏賀〇太先生の漫画とか……)
強調して言うが、私は猟奇的なもの、エログロに対して性的興奮は抱かない。そして猟奇的、エログロな表現のあるものはイラストや漫画でしか見たくない。二次元オンリーなのだ。実写など、三次元は流石に怖くて見れない。
エログロな漫画やイラストを見て、私はどこか懐かしく、愛おしく、しかし切ない感情を抱く。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に登場するお釈迦様もこんな感情を抱いていたのではないか。
それから私は生と死をテーマにした二次創作の小説をいくつか書いた。
仄暗く、メリーバッドエンドの小説だ。
メリーバッドエンドを好むようになった話は後日書こうと思う。

生と死、そしてエロティシズム。それらはきっと私の永遠のテーマであり続けるだろう。

この記事が参加している募集

沼落ちnote

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?