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古典ラッキー

安田登さんの孔子についての本を読んでいると「君子」と「小人」が出てくる。ことごとく自分が「小人」に当てはまる。すべきときを逃し、言うべきでないことを言う。

紀元前、もう2000年以上前から言われているダメパターンに停滞している。とはいえ、それを知れたのはラッキーだったかもしれない。

孔子はとにかく効く。それを残した弟子たちのセンスのよさ。子供によく聞く「大人になったら何になりたい?」という文句。だいたいは、その時に子供が知っている情報のなかから選択する。選択させられる。与えられた情報の結果そう思っているだけで、ほとんど自分のしたいことかは分からない。聞いてくる大人の顔色も伺うので、なおさら。

そんなこと聞いて「なりたいものをハッキリさせなくてはならない」という意識を子供に抱かせるべきではないかもしれない。

ここにも孔子の「不惑」が効く。不惑は「区切らない」ということらしい。自分を区切らずに、なにかに飽きてきたら図書館で興味のない棚をなくす遊びをしてみる。あえて興味のないところに突っ込んでみる。興味を区切らずにさがす。そういう本のチカラを借りる。そうして自分の領域を拡大して、旅を駆動させる。ふらふらしにいくのも大事だ。区切って固定するほうが実は楽なので、そうなっていくのだけど。だからこそ意識的に不惑。区切らずにいきたい。

寒いときに温泉に入りたくなるのは身体が固まって、節々が凝りはじめた自己を溶かすためというが、旅と温泉には何かそうした奥行きがあると思いたい。

孔子の温泉 古典は温泉 


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