犬や猫 陶芸 歴史 美術 thé techno 古い建物や街歩きが好きです。 短距離…

犬や猫 陶芸 歴史 美術 thé techno 古い建物や街歩きが好きです。 短距離スプリントとマラソンと。

最近の記事

フィジカルな対話 焚き木

とある教育的なコンテンツに接して、ハタと膝を叩いて沁みいる。 歌や音楽は目と目を合わせなくても、そこにいる多くの人が心を近くすることができる。同じ場にいるだけでいい。だからこそ歌や音楽は人類の原初の段階から生活と共にあった。 歌の原初は子守唄であり、そこから大人のための狩りなど、困難を乗り越えるためのブースターとして機能してきた。ブースターといえば現代でも戦争と音楽は距離が近く、例えば軍歌による高揚感、そして出撃の時にかかる興奮剤として多用されてきた。国際試合で流される国

    • だし文化 GOGO

      いちばん好きな食べ物は何かと思えば、みそ汁かもしれない。 NNNドキュメント「半透明のわたし」をみた。 様々な要因で生活が困難で、生活保護を受けている家庭の子供は大学に行くことを認められていないという。知らなかった。 番組に出演して自分の言葉で語っていた大学生の女性は、そのルールによって大学進学が困難になり、家を出て自分で働き、学費も生活費も払うという「保護」のルールの外にでて大学へ進学することを選んだ。しかし日本の大学の学費は未だに高額で、生活費と学費を自分で支払って

      • 広場のしりとり

        銭湯に行ったら少年とおじさんが湯船でなにやら真剣に話し込んでいた。 温泉や銭湯というのは心も身体もゆるむのが常で、なかなかシリアスにならないのが良いところだと思うので、その二人の妙なシリアスさはやけに目についた。妙だ。 しかし二人はただ、しりとりをしていただけだった。 しかもお笑いくくりルールだった。どうやらお笑いに関することだけでしりとりをするという設定らしい。なおさら何故、そんなシリアスなのか不可解だった。 所ジョージ、ジャルジャル、ルー大柴… おじさんは所ジョージの

        • 民話と伝説と

          「こころの時代」 口伝されてきた民話を聞き集めて記録する探訪を続けてきた民話採集家の小野和子さん。語りにより救われたり、その土地を歩く実感が変わったり。 民話には語り手の人生、先祖の切実な現実や知恵が蓄積されている。小野さんの民話採集の道のりそのものが民話のようだった。 物語に人間や自然の残酷さ、優しさが潜んでいて、実生活に響く。 自然のすぐ近くで、山や森、海や川と共に生きてきた人々によって語り継がれてきた物語。それは教訓だったり、悲劇を乗り越えるすべであったりする。

        フィジカルな対話 焚き木

          劇場と廃墟と

          イマーシブシアター。参加、没入型。と説明される。 安全と刺激のバランス。「シアター」について考えてると、大袈裟に言えば、この公演にいったら、歯の一本や二本いくかも、とか、白い服は汚れるからやめとこうとか、そういうスリリングさが演劇とかの魅力の一つでもあるような気もする。 元来の祝祭性として。それでも観てみたいぞっていう。そういうことは年々できなくなるけども。なんかそういう色気、ヤバさについては考えたいテーマではある。昔、子供がサーカスみてトラウマになっちゃうとか、そういうこ

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          ねこの日 猫

          今日は猫の日。 猫は素晴らしい。かわいい上にさまざまな視点を与えてくれる。 そもそも猫という漢字すらかわいい。 寝る子だから「ねこ」という素晴らしい説がある。 寝ることは最も大切なことだ。ねこのようにひろいで寝られる状態を目指したい。お腹を上に向け、世界に己を開けっぴろげて眠る。 その姿を見るだけで、眠るような回復の効果を人間にもたらす。 猫には過去も未来もない。ただ現在があるだけで、その瞬間瞬間を生きている。これは岡本太郎さんもよく言っていた。「瞬間を生きる」 それが人

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          ホッパーと光

          エドワード・ホッパーはアメリカの美術学校が合わずにパリに行ったという。 パリはちょうどキュビズムなどの運動が巻き起こっていたが、ホッパーはパリの街、橋や教会を描いていた。 パリは橋の下でさえ光にあふれていた、とホッパーは語っていたというけど、それはニューヨークのような電気に照らされた都市の光ではなく、街が人間と共に歩んで培ってきた人間くささと、夜の路地の暗さがあるからこそ引き立つ光のことだったのかもしれない。光だけだとドラゴンボールの精神と時の部屋みたいになる。あそこに色

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          職人のドキュメンタリー

          職人業界のあるドキュメンタリーをみた。 職人業界の離職率の高さの問題を解決するために、ある左官業の会社は改革に乗り出した。 本来は修行をはじめてから5年しないと触らせてもらえなかったコテを初日に持たせ、丁寧に教える。動画を撮って、同時にベテランとの映像と比較して、すぐに上達していく新入社員。その新入社員は南アフリカから来た女性で、あっという間に壁を塗れるようになっていた。 最初は慣習から飛び出した取り組みに「ふざけんな」と反対していたベテランは、「俺が若いときはもっと苦労

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          ポンピドゥー ピュトー

          国立西洋美術館 「パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展」 へ行った。 キュビズムという運動がセザンヌの大きな影響を受けていたと初めて知った。全くそうした連環を感じれていなかった。しかしセザンヌの世界からキュビストたちは大きな刺激を受けていた。面白い。思わぬところからプレゼントがある。というより予測していなかったところから何かを発見する刺激は人間の面白みの最たるところだと思えた。 重なる時代、タイミングの面白さ。キューブだからキュビズムで、チューブだとチュビズムという

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          古典ラッキー

          安田登さんの孔子についての本を読んでいると「君子」と「小人」が出てくる。ことごとく自分が「小人」に当てはまる。すべきときを逃し、言うべきでないことを言う。 紀元前、もう2000年以上前から言われているダメパターンに停滞している。とはいえ、それを知れたのはラッキーだったかもしれない。 孔子はとにかく効く。それを残した弟子たちのセンスのよさ。子供によく聞く「大人になったら何になりたい?」という文句。だいたいは、その時に子供が知っている情報のなかから選択する。選択させられる。与

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          怪談

          民話や怪談が好きで、よく調べたりする。古い建物に行ったときは「なにか不思議な話とか知りませんか」などと聞いたりするし、年配の方と話す機会があると、なんとなしに聞いてしまう。ところで軍隊などのクローズドサークルには怪談が多いらしい。もちろん軍隊は日常よりはるかに死の領域と近いし、自衛隊などは旧日本軍の土地をそのまま使っている駐屯地も近いので、様々な逸話があるという。 軍隊の訓練は飲まず食わずで歩き続けるとかも多いし、神経とか精神が研ぎ澄まされて、いわゆる「感知」しやすくなって

          東京おどるおばあさん

          最近また能の本を読んでいて、去年の暮れにあった時間を思い出した。 少し混んだ電車の中、座っているおばあさんが中吊り広告のあたりをぼんやり見つめながら、手をヒラヒラとゆっくり動かしていた。その目を見ると、そのあたりにある特定のものを見ているのではないと分かる。何かを思い出そうとする、自分の記憶をたぐるような目だった。 そのゆっくりとした手の動きは、きっとかつて、舞踊でもやっていたのだろうという手つきだった。頭の中では衣装を着て、照明に照らされて踊っているのかもしれない。数日

          東京おどるおばあさん

          丁寧

          学びたいこと、と思うと言葉のこと。 普段は日本語を使っているけど、例えば英語で会話するときの頭の中身の色やノリが変わることの面白さ。ヨーロッパ圏に生活する人々は近所に外国語がバンバンあるものだから、日常のノリとして外国語に接しているし、それを自分で使う機会も豊富だろうと思う。脳内多言語という面白い状態も、近所に人種も宗教も言語も違うスーパー他者がたくさんいるっていう状況は日本からすると特殊だし、羨ましくも感じる。楽しそうだ。 すれ違いと共に発見も多そう。他者と触れ合うことは

          街と明るさ

          街には暗がりがないと色気がなくなって、乾いた街になってしまう。例えばパリとかにはこの路地の奥どうなってるんだという暗闇があって、酔っ払いが立ちションをしていたりする。目抜通りにも芸術家が占拠した廃墟のようなワケの分からない建物があったりする。暗闇は人の想像力の燃料みたいなもので、水木しげる先生も「明るくなりすぎた街には妖怪さんがいられなくなってしまった」と言っていた。人工によってコントロールされすぎた街は少しつまらない。護岸工事をバキバキにされて生命力を奪われた川もそうだ。暗

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          横顔

          人の横顔というのが好きだと気づいた。人の横顔は綺麗だと思う。横顔を見ているとき、こちらがそちらを見ていると分からないから、その人も緊張のないニュートラルな顔になるからかもしれない。 真正面から人を顔を見るというのは面接とかダンスとか、お見合いというか、儀礼的になって緊張する。動物で例えたら、戦いになる寸前のような、相手との距離を測ったり戦力を推測したりするような緊張感がある。 でも横顔を見るというのは、近くても遠くても、ただ一人で気ままに「綺麗だ」と言葉にもならないような