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丁寧

学びたいこと、と思うと言葉のこと。
普段は日本語を使っているけど、例えば英語で会話するときの頭の中身の色やノリが変わることの面白さ。ヨーロッパ圏に生活する人々は近所に外国語がバンバンあるものだから、日常のノリとして外国語に接しているし、それを自分で使う機会も豊富だろうと思う。脳内多言語という面白い状態も、近所に人種も宗教も言語も違うスーパー他者がたくさんいるっていう状況は日本からすると特殊だし、羨ましくも感じる。楽しそうだ。

すれ違いと共に発見も多そう。他者と触れ合うことは自分でも気づいていなかった自分の輪郭を見つけることでもある。外国語という違った回路を通すことで、また違った自己も認識できるかもしれない。

いずれにせよ、そうした「非自己」と戯れて、揉まれ遊ぶことによって培われる感覚というのをもっと体感したい。

と同時に、日本語も面白い。漢字を使いまくっているから、漢字を見た瞬間にあるニュアンスが浮かんでくるけれど、「瞬」とかもまさに。しかしそうした感じが成立していく過程には本当に豊かな紆余曲折のドラマがあって、そういう奥行きを辿るのが面白い。例えば丁寧の寧とかは「屋根」の形と「心臓」の形と「皿」の形とを組み合わせて、「神にいけにえをささげる」ということだという。恐ろしくて面白い。丁寧の主体者というかどっちがやろうとしているのかというベクトルの問題もあるけれど、いずれにせよ、生贄の心臓を神に捧げている人も、捧げられている神も、丁寧という言葉のドラマには入っているかもしれない。丁寧なヤクザが一番こわいみたいな。

こうした言葉の奥行きに秘そむ潜む面白みはその言語のどの言葉にもあって、そこを探っていく、再認識していく作業はとてつもなく面白い。

「今年」学びたいことでは済まないが、興味を持ってしまったのだからもう後戻りはできない。たしか今年の「今」とか「年」という文字にも、、もちろん何か奥行きがある。だいたい生贄かもしれない。

今年、などとは括れない、生涯かけて学んでいくことと出会える興奮を忘れずに生きていきたい。

#今年学びたいこと

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