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小説・映画「こちらあみ子」今村夏子~無垢な歪さと世界の軋み

今村夏子さんのデビュー作である「こちらあみ子」を読み終わり、何と表現したらいいのか…言葉に出来ないような感情が次々と湧き上がってきた。

これは映像の方も観てみたいと思い、急いで映画の方も観た。
あみ子役の大沢一菜ちゃんの目力のある表情がすごく良い。これが初めての演技とは思えないくらい自然にあみ子になりきっていた。「誰も知らない」でデビュー時の柳楽優弥くんを彷彿とさせた。
父役の井浦新さんが舞台挨拶で、大沢一菜ちゃんは原作のあみ子を超えてきた、と言っていたが大袈裟ではなく同感。
森井勇佑監督はこれがデビュー作ということだが、映画たるもの言葉ではなく映像で表現する、ということをよく分かっている方だと思った。
石段の多い海沿いの町の風景や、いつも裸足か薄いサンダルで地面をペタペタと歩いているあみ子の姿は、映像から原作を補完するような情景が立ち上がってくるようだった。
私は小説のみの冒頭部分である、あみ子の小さな友達が、遠くから竹馬に乗って、えっちらほっちらやって来る場面も好きだ。


物語の前半は、ちょっと変わった女の子・あみ子が、寛容な父、自宅で書道教室を開く料理上手な母、妹思いの兄の、四人家族で暮らす幸せな幼い頃の様子が描かれる。
誕生日には母の手料理を囲み、プレゼントに黄色いトランシーバーとチョコクッキーと使い捨てカメラを貰い、嬉しくて嬉しくて大好きなのり君にさっそく報告するあみ子。
授業中に歌ったり、カレーを食べる時はインド人の真似をして手で食べる、やりたい事は自由にやる、まるで別の星からやって来た宇宙人のようなあみ子に対し、学校のクラスメイトは嘲笑ったり腹を立てたり馬鹿にするのだが、あみ子側から見れば毎日生き生きとした世界だ。そして広島弁がまた絶妙な効果を生んでいる。
あみ子の心持ちを表すように、その時々で母の顎のホクロが大きくなったり小さくなったりして見えるシーンは原作通りだけれど、とても映像的だと思った。

やがて成長するにつれ、あみ子を取り巻く世界も、あみ子の内側の世界も、音を立てて軋み出し徐々に狂い始める。
母を喜ばせようとあみ子が取ったある行動が、家族に決定的な亀裂を生む。
彼女が何か事を起こすたびに、周りには不穏な空気がつきまとい、どんどんあみ子から目が離せなくなってゆく。
父母と兄のあみ子に対する、愛したいけど愛し切れない心情が、苛立ちからやがて絶望へと変わってゆく過程が、スピードを増しながら迫ってきて、息苦しくなる。
しかしそんな時もあみ子は、寂しさ、疑問、疎外感、恐さ、それらの感情を直接表す言葉を持たず、真っ直ぐな瞳に映る世界を、ただ見つめているだけだ。

今この瞬間を生きて、好きなものは好きという感情をぶつける、あみ子。
その生でストレートな存在に、周りの人々は怖れのようなものさえ抱いているように見えた。

「こちらあみ子。応答せよ」
トランシーバーからのあみ子の呼びかけに答える者は、誰もいない。

無垢な者は、一途さゆえに生きづらく
異物と見做されれば、受け入れられず排除される

しかし多くの人々の中にも、ちょっといびつな自分というものがいるのではないか?
あみ子は誰の中にもいるのかもしれない。

いつの間にか、自分があみ子になって外の世界を見つめていた。



ラスト、映画版のみのオリジナルシーンでは、あみ子が裸足のまま地団駄みたいなスキップを踏みながら、夜明け前の山道をどんどん降ってゆく様子を、長回しの遠景で捉えた場面は印象的だ。

やがて海に出ると、そこにはあみ子だけの世界が広がっていた。
波打ち際にすっくと立つあみ子の後ろ姿は、無垢な者の象徴のようにも見える。

幽霊たちのボートに手を振る、あみ子。

どこからか尋ねる声に振り返り
「大丈夫じゃ!」
元気に答えるあみ子に、胸を衝かれ
エンドロールに流れてきた
青葉市子さんの囁くように静かで優しい歌声に、涙が溢れた

応答せよ、応答せよ、こちらあみ子!






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