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映画「土を喰らう十二ヵ月」、水上勉「土を喰う日々 わが精進十二ヶ月」~滋味深く生きること

映画『土を喰らう十二ヵ月』を観た。

作家のツトム(沢田研二さん)は、愛犬の "さんしょ" と信州の山奥にある山荘で暮らしている。
ツトムは季節ごとの山の恵みを享受し、小さな畑を耕し、子供の頃口減らしに出された京都の禅寺でおぼえた精進料理を自ら作り、喰う。

映画の中では四季折々の山の風景が映し出され、季節の移り変わりを表す二十四節気にじゅうしせっきを示す構成は、まだ雪深い立春から始まり、啓蟄けいちつ清明せいめい、立夏、芒種ぼうしゅ、立秋、白露はくろ寒露かんろ…と、その漢字と響きからも日本語の美しさが感じられる。
自然と共にある静謐な山の暮らしを見ていると、しみじみと心が静まってゆくようだ。

ツトムの元には、担当編集者である真知子(松たか子さん)が、しばしば東京から訪ねて来る。
その日に畑や山で手に入る菜で手料理を振る舞い、お茶うけに自家製の干し柿を出し、抹茶まで点てるツトムの姿を囲炉裏端から眺めながら、「いい男ねぇ」と真知子は感に堪えないといった様子で呟く。
そう、ツトムと真知子はだいぶ歳が離れているけれど恋人同士なのだ。
13年前に若くして亡くなったツトムの妻も担当編集者だったようで、真知子は妻の後輩でもある。

土間のある台所では、薪を焚べ昔ながらの羽釜で米を炊く。
包丁は使わず木の道具で芋同士をぶつけ合い洗いながら少しだけ皮が剥けた里芋を網で焼く、樽いっぱいに漬けた白菜、近所で採った梅で自家製梅干し、擦った胡麻と葛で作った胡麻豆腐、ツトムが作るシンプルな食の数々は、観ているだけでも滋味深い味が想像できる。
皮や根が一番美味しいところなのだ、と禅寺で教えられたツトムは、余すことなく何でも素材丸ごとを食べきる。
ツトムの手料理に舌づつみを打つ真知子が「この香りいいわぁ。土?土の香りなのね!」というセリフも印象に残る。

主人公・ツトムのモデルになっているのは作家・水上勉さんで、映画を観たあとに原案になっている『土を喰う日々 わが精進十二ヶ月』も読んでみた。
本書には、水上氏が少年時代に禅寺で典座職(禅寺でのまかない役の呼称)をしていた頃の、まなびも記されていた。

何もない台所から絞り出すことが精進だといったが、これは、つまり、いまのように、店頭へ行けば何もかも揃う時代とちがって、畑と相談してからきめられるものだった。ぼくが、精進料理とは、土を喰うものだと思ったのは、そのせいである。旬を喰うということとはつまり土を喰うことだろう。土にいま出ている菜だということで精進は生々してくる。

水上勉「土を喰う日々 わが精進十二ヶ月」



ツトムは春になると山菜を採り、真知子と掘り出したばかりのタケノコを茹でると大急ぎで食べる。
私も子供の頃は山菜採りによく行った。コシアブラ、こごみ、タラの芽は天ぷら、ふきのとうはふき味噌、わらびはおひたし、ぜんまいは煮物、フキは含め煮にすると、とても美味しく独特の苦味も味わいがある。これらは、農家の出で山菜にも詳しかった父が、いつも下ごしらえから全てやっていた記憶がある。

大工だった水上氏の父は、山の仕事場に行く時は弁当箱に塩と味噌と飯だけを入れてゆき、惣菜になるものを山で収穫し焼いたりして喰っていたという。
新鮮な山の幸を採りその場で調理し食べるなんて、これぞ本当の贅沢だと思うのだが、幼い頃の水上氏は家が貧しかったこともあり、そんな父親の姿が哀れで恥ずかしかったという。
山菜の美味しさ貴重さがわかるようになるのは、大人になってからなのかもしれない。

米を洗ったり、菜などをととのえたりする時、典座は直接、自分の手でやらねばならぬ。その材料を親しくみつめ、こまかいところまでゆきとどいた心であつかわねばならぬ。

水上勉「土を喰う日々 わが精進十二ヶ月」

道元禅師の「典座てんぞ教訓」にはそう記されているそうだ。

ツトムの家に水道は通っているが、料理をする時も一滴も無駄にせず、汲み置いた水を毎回柄杓ですくいながら大切に使っていて、その所作の一つ一つにも節度がある。
山に生えている野草を摘み採る、菜の土を丁寧に洗い落とす、包丁で切る、擂り粉木ですり潰す、素材を慈しみながら料理している時のツトムの手元が、映画の中では何度も繰り返し映し出される。
あのジュリーである沢田研二さんが…畑を耕し、毎日土に触れている人特有の無骨な手をしているところも、妙に感慨深い。

水上氏の著書には、自らの精進料理の思い出や食の工夫が沢山綴られており、中でも、漬けた人がこの世を去ってからも長い年月受け継がれてきた梅干しを、大切に愛おしみながら客に振る舞う話に、胸を打たれた。

また、ここで、いいそえれば、梅にも醍醐味があって、その味は、ぼくという人間が、梅にからんで生きているからである。ドライブインの量産梅干しを買って、それで飯を喰っても充分うまいけれど、手作り梅には、手をつくすだけの自分の歴史が、そこにまぶれついている。それを客に味読してもらうのである。

水上勉「土を喰う日々 わが精進十二ヶ月」

よく干した梅を畑で採れた大きな紫蘇の葉に包んで漬け込む、という食べ方も大変美味しそうで、読みながら口の中に唾が湧いてくる。

まさに、生きることは食べることなのだ。


やがて秋になり、身内や自分自身に起きた出来事から、死にたくない、という思いに囚われたツトムは "どうして死ぬのが嫌なのか" をひとりで考えたい、と真知子に告げる。
自分の老い、後に残されることになる真知子のことも、思いやったのかもしれない。

禅宗では、すべての執着を絶てという
人は生まれたからには死があるのだから
あるがままに生きるべしと説く
さて、そうは思っても
凡人のぼくには
あるがままの死がかなしい
しかし逃げ続けていても解決がつかぬから
いっそ死神と仲良くするために
一度死んでみることにした

映画「土を喰らう十二ヵ月」


「さあ死のう」「皆さん左様なら」と言ってツトムは寝床に着く。

不思議なことに
死んだはずのぼくにも朝は来る
ああ、生きている、と思う

映画「土を喰らう十二ヵ月」


この "死の疑似体験" というものを経験すると、ひとは一度死んで生まれ変わったような心持ちになるらしい、と聞いたことがある。

明日も明後日もと思うから
生きるのが面倒になる
今日一日暮らせれば、それでいい

映画「土を喰らう十二ヵ月」


ラストに向かうにつれ、ツトムは、穏やかに山の暮らしをおくる老作家というよりも、ひたひたと足元に近づいてくる死を前に、悟りを開こうとする禅僧のような様相を呈してゆく。

霜降そうこうから立冬になり、ツトムはその晩も「皆さん左様なら」と言って眠りにつく。
夜中にやがて音もなく雪が降り始め、翌朝、玄関の引き戸を開けると辺りは一面、あの世みたいに真っ白な世界が広がっていた。

ほぉ…と、ため息のような声を出し雪景色を見つめると、ツトムは凍えるような雪の中で白菜を切って漬け、雪をかき分け抜いた大根をかじかむように冷たい水で洗う。

質素だが丁寧に整えた食卓を前に、いただきますと手を合わせるツトムの姿に "清浄" の二文字が浮かんだ。

また、山でのツトムの十二ヶ月が続いてゆく。




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