創作「はなしのはなし」 兼藤伊太郎


「話があるんだ」と、同僚が青い顔をしてやってきた。
猫の手も借りたいほど忙しい折である。とてもではないが手が離せない。私の態度にはそのいら立ちが露わになっていたことだろう。同僚からは煙草の臭いが漂ってくる。そもそも私はこの同僚が時折取る「煙草休憩」なるものをよく思っていなかったのだ。気の良い奴であり、職場を離れても友人でいられる人間ではあるが、そうしたあれやこれやが重なると自然と対応もつっけんどんになる。それが人情だろう。
「なに?」
「話があるんだ」同僚はその一点張りである。私のいら立ちになどお構いなしである。
「だから、なんなの?」
「だから、話があるんだって」
「ここじゃ駄目なの?」なにしろ私は多忙なのだ。その場を離れたくない。
「話があるんだって」そういうと彼は、私の腕を掴み無理矢理立たせると、引っ張って行った。私はなすがままである。抵抗を許さない決然としたものが彼の腕から伝わってきて、私は恐怖すら覚えていたのだ。
廊下を抜け、階段を下り、玄関口まで連れられて行って私は驚いた。
 話があったのだ。
 それは玄関口を塞ぐようにそこに鎮座していた。なんとも大きな話である。とてもではないが信じられない。信じられないような大きな話だ。
「いや、いや」私は首を横に振った。「信じないぞ。こんな大きな話を誰が信じられるというものか」
「そうは言っても」同僚は言った。「現にこうして話があるわけで」
「うむ」と私は唸ったきり何も言えなくなった。確かにそこに話はあるのだ。それはどうしたって否定のしようのない事実である。
「裏があるに違いない」私は言った。すると同僚は出入り口を塞ぐ話の隙間を見つけ、私たちから見て裏に回ったのだった。
「確かに裏があるな」同僚はそう言った。「しかし、こっちから見ると表のようにも思う」
「すると、こっちが裏か?」私は言ってバカバカしくなった。ようはそこに話がどんとあり、それは私たち、会社に出入りする人間全部にとって邪魔な存在であるということでしかない。
 そして、邪魔であればどかすしかない。
 私と同僚は腕まくりし、軽く柔軟体操、準備運動までしてそれに取り掛かった。あらん限りの力を振り絞って、その話を押したのだ。
 ところが、ちっとも話は進まない。なにしろ話は曖昧模糊として捉えどころがない。力を込めて押したところがグニャリと柔らかかったものだから、また別のところを押すと今度はそこがグニャグニャだ。硬かったかと思うと柔らかくなる。それではどんなに力を込めようと頑張っても上手くいかない。
「参ったな」私は額に大粒の汗を浮かべ、話に背中を預けながら言った。それは柔らかく包み込むようで心地いい。
「うん、参った」同僚も同様である。
「いったいどこから降って湧いたんだろう?」
「何が?」
「何がって、話に決まってるじゃないか」
「話なんてそんなものだろう。どこからともなく降って湧くもんだ」
 これは私と同僚の話に対する考え方の違いが顕になったな、と私は興味深く思ったがそんなことにかかずらってはいられない。私は多忙であり、こんなバカげた話になんて本来なら構ってなどいられないのだ。一刻も早く解決策を講じねばならない。
「腰はどこだ?」
「腰?誰の腰だ?」
「バカだな、話の腰に決まってるじゃないか。話の腰を折れば、折りたたんで運びやすくなるかもしれない」
 そこで話の腰を探したがくまなく探してもそんなもの見つからない。
「尾ひれをつけてみるのはどうだろう?そうすれば勝手に泳いで行くんじゃないか?」
「確か、倉庫に余った尾ひれがあったな」
 倉庫から引っ張り出してきた尾ひれを話につけたが、そこは水の中ではない。話は尾ひれをブンブン振り回し、それは空を切るばかりでどうにもならない。
「弾ませるのはどうだ?上手く話を弾ませれば、どこかに運べるんじゃないか?」
「任せておけ。俺は学生時代バスケットボール部だったんだ」
とはいえ、話とバスケットボールでは要領が違うのは言うまでもない。必死でペチペチ叩いてもそれが弾む気配など一向に無く、虚しくなるばかりだ。
「誰かもう一人呼んでこよう」と、どちらからともなく提案した。その話がふたりの手に余るのは明白だったからだ。
部屋に戻る。誰もが下を向き、何かに取り組んでいるように見える。あくまで見えるだけだ。激しくキーボードを叩き、ペンを走らせているが、どれもフリに過ぎない。働いているフリだ。支離滅裂な文章、意味不明な線が書かれているだけだろう。それが私には、そして相棒である同僚にもわかっていた。話がどこから漏れたものか、厄介事があることがみなわかっているのだ。誰彼構わず肩を掴み、こちらを向かせたい衝動に駆られたが、仕方のないことだと思いとどまった。誰もあんな話に関わりたくないだろう。もっともだ。
唯一、私たちの方を向いている者がいた。新入社員だ。口をあんぐりと開けてこちらを見ている。むしろそれが当然のように思われる。我ながら、凄まじい勢いで部屋を覗き込んだのだ。驚かない方がおかしい。目が合った。新入社員は口を開けたまま硬直している。
「あいつか?」と同僚が耳打ちする。
「仕方ない」と私は返す。
「あいつじゃ話にならない」
「その方が都合がいいじゃないか」これ以上話が増えても困りものだ。
新入社員はあまりのにも仕事のできないことで厄介者扱いされており、選考を行った者の責任問題にまでなっているような男なのだ。だからこそ、勘を働かせて仕事をしているフリもできなかったに違いない。
私たちが近寄って行くと、新入社員は一瞬立ち上がろうとし、しかし逃げ場の無いことに気付いてもう一度席につき、左右を見回したが誰も助け舟など出す気配などなく、何かが破裂するのに怯える人のように身をすくませた。私たちは彼の前にただ立っただけだった。
「ぼくですか?」新入社員は恐る恐る目を開け、そう言った。
「話があるんだ」私たちはそう言った。
「ここじゃダメですか?」
「話があるんだよ」私と同僚は新入社員の肩に手を置いた。
ところが、三人になったところで事態は好転しなかった。二人でもビクともしないものが、三人になったところで動くなどという虫のいい話はないのだ。文殊の知恵も無く、名案も浮かばない。矢が三本になったところで、自分たちの無力をまざまざと見せつけられるだけであり、心はもう折れる寸前だ。
私たちは汗だくになり、そこにへたり込んだ。そろそろ結末でもいいんじゃないか?
「バカ!まだ話がまとまってないぞ」
「そういえば、こないだ」
「話をそらすな!」
「ぼく、行っていいですか?」
「話の通じない奴だな。これどけなきゃどうにもならないだろ!」
「ひどい話だ!」
とかなんとか、延々口論し、むしろその口論で私たちはくたびれ果ててしまったのだった。もう空も茜色に染まってきている。じき、その帳はおりるだろう。一日中こんな無益なことをしていたのかと思うと愕然とし、立ち上がる気力も無い。
「帰ろう」同僚がボソッとそう言った。
「えっ?」私と新入社員は驚いてそう声を漏らした。「今、なんて言った?」
「帰ろう。もういいよ。この話がみんなの邪魔になったところで知ったことか。どうせ手伝おうともしない連中だ。俺たちばかり頑張るなんて馬鹿な話があるもんか。いいよ。このままにして帰ろう」そう言うと、同僚は立ち上がった。私もそれに同調する。新入社員は少しためらっていたが私たちの堂々とした姿を見て意を決したらしい。すくっと立ち上がり、私たちと顔を見合わせ、頷きあった。どういう意味があるのか皆目わからないし、はっきり言って私たちは何一つやり遂げていないのだ。達成感など無いはずにもかかわらず、妙な達成感を感じさせる場面であった。そうして、私たちは夕日に赤く染まる話を背に、それぞれの家路についたのだ。
翌日の朝、寝覚めの悪かったのは言うまでもない。目が覚めると同時に、心の中に何か思い出したくもない嫌な塊がぼんやりと思い浮かび、それがしっかりとした輪郭を持ち明瞭になると、それはあの話をそのままにしたことであるとわかった。前日には何の罪悪感も無いまま話をそのままにしたが、冷静になってみると自分の行いが正しかったのか、自信が無くなってくる。よくあることだ。会社に行けばあの話に向き合わなければならない。私は重い心を引きずるように会社に向かった。話の待つ場所へ。
会社の前に人だかりができていた。それはそうだろう、と私は思った。そこには話があるのだ。誰もがその話に直面し、立ち往生することになるだろう。そして、それはそれを放置した私たちに責任の一端がある、ような気がする。
私は人垣をかき分けて行った。その最前列に同僚がいた。茫然とした顔をしている。
「どうした?」私は同僚に尋ねた。同僚は何も答えず、ゆっくりと指さした。話のある方向である。
私は目を疑った。
話に花が咲いていた。

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