「人はモノではない」ことがわかる内部告発

ここ数日は「嘘・不正・偽装」と「良心・倫理・正義」などについて書いてきました。昔から正義感が強いところがあった私にとって、このテーマはかなり重要なもので、この腐りきった世の中に常に疑問を抱き続けています。多くの人は嘘・不正・偽装は悪で、あってはならないことだとわかっているのにもかかわらず、自分の生活のために勤めている会社・組織の論理(その他個人でもお金や利益のため)で「みんながやってる」ということになると、そういった善悪の判断が鈍ってしまうことが多々あります。その話は前回の「みんなやってる」罪の意識が薄れる恐ろしさという記事に書きました。

企業や組織の嘘や不正が明るみになる例の一つに、内部告発があると思います。もし、企業や組織で働く大多数がAIやロボットになった時に、内部告発というのはあり得るのだろうか、とちょっと考えてみたことがあって、「たぶんなさそう」ということになると、善悪の判断や倫理問題への取組、正義感を発揮するというのは、人間ならではの営みなのかもしれない、とふと思いました。以前から書いているように、これからの時代は物理的次元に偏り過ぎたバランスを整えるために、哲学や倫理観といった内側の問題が非常に重要になってくると感じています。

なんでそんなことを思ったのかというと、政府、企業・組織は当たり前に人間をモノ扱いしていて、人間を人間として扱ってこなかったけれど、内部告発などがあったときに「やっぱり人間はモノではなかった」ということがよくわかるなぁと感じたからです。人間には心、もっというと良心や善のために生きようとする心があると思うし、いくら嘘や不正に染まりかけたとしても、「良くないことは良くないのだ」という真っ当な気持ちを持っている人は少なくないし、そう思って実際に勇敢な行動に移れる人もいるのだということ。もしそういった勇気ある行動によってその人が不利益を受けたとしても、その人の心の清らかさや類まれなる行動力、勇敢さというのは称賛されるものであって、本当に価値ある誇らしい生き方だと思います。

かといって「人間には心がある、だからモノではない(→だからモノ扱いすべきでない)」ということを言いたいわけではありません。動物や植物、モノにも意識はあるし、私たちが察知できないだけで心みたいなものもあるのではないかと思っています。「モノ扱い」という言葉には、「邪険に扱う、雑に扱う」という意味があると思いますが、だからといって「モノ」を「邪険に扱う、雑に扱う」ことがOKというわけではないわけで、「人間をモノ扱いするな」と言うのは良いけれども、本当は人間、動植物、モノetc…ありとあらゆる存在を「邪険に扱う、雑に扱う」ことはNGなのだということなんですよね。これは余談ですが、動物や環境に配慮した良いことをしているような組織・団体であっても、内部でパワハラ続出とか権力争い云々といったことがあるとすると、「動物や環境を大切にするのは良いけど、まず近くの人間を大事にしようよ」と思ってしまうこともありますね。

結局のところ、人をモノ扱いする企業・組織ほど、嘘や不正を働く可能性が高いと言えると思います。人を人だと思っていれば、人には良心や善なる心があるということがわかるはずですからね。おそらく、人をモノ扱いする人・企業・組織には、良心や善なる心が著しく欠けているんでしょうね。大きな組織になればなるほどその血は薄まっていって、「良いことは良い、悪いことは悪い」という真っ当な感覚を持っている人の割合も増えるのかもしれません。人をモノ扱いするからこそ、その仕返しや報いのような形で内部告発をされるという可能性も高くなるわけで、どんな形であっても自業自得なのでしょうね。

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