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記憶

私には、ここに来るまでの記憶がない。
ここに来てからの記憶、と言っても呼気弁と吸気弁を閉じたり開いたりしながら人間の体の中に空気や酸素を送ったり吐き出させたりする、ただそれだけの記憶の反復なのだけれど。
気がついたらこのだだっ広い部屋にいて、私とホースで繋がれた身じろぎもせずに横たわる人を見た…と言っても私に目はないはずだから「認識した」と言ったほうがよさそうだけど…そんなことはこの際どうでもよくて、その記憶の始まりが、今から一年ほど前のことだったと思う。
それから昼も夜もなくプログラミングされた通りの酸素濃度、リズム、圧力で人間に空気を送り続けている。

この時私が担当したのは、寝台の頭側三分の一くらいしかない小さな少女。
彼女とホースで繋がれた瞬間、私は少女の命の灯火が消えかかっていることを悟った。
それは、私が送り出す空気を受け止める少女の肺の弾力や反発する力が、生気を持った人のそれとは違ったからかもしれないし、単に私がこの一年で経験した幾度もの死に近しいものを少女から感じたからかもしれない。

少女の傍らにはいつも同じ女性が付き添っていて、少女がここに来た日、私はこの女性が語った事をすぐ側で聞いていた。

「天ぷら油を熱したまま下の子が泣いたから台所をほんの少しの間離れたんですけど…この子がその鍋に手をかけてしまったみたいで…。泣き声が聞こえて駆けつけたときにはもう…。」

少女の顔から胸にかけての皮膚は、雲の浮かぶ夕焼け空のように赤と白のまだら模様を描いていた。

女性は、朝早くから夜遅くまで来る日も来る日も少女の傍に座り、看護師は肩を落とす女性に優しく声をかけ、タッチングしながら悲嘆の過程を乗り越えられるようケアをし続けた。

私は、女性の姿を毎日見ているうちに、女性の表情にある変化が起こっていることに気がついた。

それは、少女の心臓の鼓動が普段よりも力強く打ち始めたある日のこと。
「今日は血圧が安定しています。心臓が頑張ってくれていますよ。」
微笑みながらそう伝えた医師が隣の寝台へと立ち去ると、ほっとした表情を浮かべるかに見えた女性の顔には、なぜか落胆の色が浮かんでいた。

その日から、私は女性の表情を注意深く観察するようになったが、一進すると失望し、逆に一退すると悦ぶかに見えたのは、私の見間違いだったのだろうか。


──少女の心臓が、止まった。
少女と私が繋がれてから、二週間目のことだった。
女性は涙を流し悲しんでいるように見えたが、それが少女を亡くしたことによる涙だったのか、そうではなく別の涙だったのか、その時の私には判断することはできなかった。

私には涙を流す目もないし、悲しむということがどういうことかわからなかったが、これまで私が空気の交換を行った人間の中で最も小さなこの少女のことは、忘れることができなかった。

それからまた同じような日々が過ぎ、ちょうど一年が経った頃、私はあの少女の面影のある顔に再会した。
今度私と繋がれたのは、ようやく自らの足で歩き始めたであろう、あのときの少女よりも小さな小さな男の子。

傍らには、あの女性がいた。
男の子がここに来た日、私はこの女性が語った事を、あの日と同じようにすぐ側で聞いていた。
「湯船にお湯を張ったまま、ほんの少しこの子の側を離れたんです。戻ったときにはもう水の中に沈んでいて…」
女性の目からは、不安や悲しみというよりも、恍惚とも見間違えるようなギラギラとした光が放たれていた。

水で満たされた男の子の肺は、空気を送り込む度にブクブクと嫌な音をたて、その振動と抵抗が私の中へと直に伝わってくる。
私は、男の子の短い命の終わりを悟った。


──男の子の心臓が止まった。
私には、為す術もない。
私と男の子を繋いでいたホースが外され、役目を終えた私は待機モードになったが、男の子のもう二度と動くことはない胸郭をその場からじっと見つめた。
「17時32分、死亡を確認しました。」
医師がそう宣告すると、女性は両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
側にいた看護師が、崩れ落ちそうになる女性の肩を後ろから支え、椅子へと導いたとき、私は女性の両手の隙間から、口元にうっすらと笑みが浮かぶのを見たような気がした。

看護師の優しさに対する感謝の微笑みなのか…いや、あれは人間が満足したときに見せる表情ではなかったか。

椅子へ座り、落ち着きを取り戻した女性に医師が近づく。
「お母さん。こんな時に恐縮ですが…このあと警察による検死が行われることになっています。お母さんとも個別にお話がしたいとのことでしたので、こちらへどうぞ」

私の記憶は、そこで一旦途切れることとなる。
誰かが電源を完全に切ってしまったのだろう。

次に私の記憶が清明となったとき、側でベッドメーキングをしている看護師がこんなことを話していた。

「ほら、あの女の子と男の子が亡くなったお母さん、いたでしょ?あの家ではね、三年前にも男の子が亡くなってたらしいよ。…そうそう、あの女の子のお兄ちゃんもね…」


この物語を、私の体験だと思うか、私の体験でないと思うかの判断は、あなたに委ねます。
判断を下されたところで、今さら結末が変わるわけではありませんが……



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