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みんなが150キロを投げなくて良い。 「足りないこと」が、強みになってゆく 【3/30 阪神戦⚫️】

全143試合、今年ももちろんいろんな試合があるだろう。あるだろうけれども、世にも珍しい試合を開幕2戦で見せ続けてくれるこのチームはさすがである。サヨナラワイルドピッチの翌日は、スミイチである。こんなチームはなかなかない。念のためお伝えしておくと、両方負けている。特に泣いてなどいない。

負ける要素がさっぱり思い浮かばず、とうしゅおうこく誕生!と思っていたオフシーズン。

そして、誕生したはずのとうしゅおうこくが早くも崩壊したオープン戦。

さらに、とうしゅおうこくが謎の復活を遂げた途端、打線が静まり返った開幕戦。

・・・今年もヤクルトは全くもって、予想がつかない。そうだった、これがヤクルトというチームであった。それをまずは思い出させるための、この開幕二戦だったのである。

誰かを好きになるということは、「確かに傷つく」ということだ。釈尊は、自分の子供にラーフラ(束縛・障碍)と名付けた。愛する者が生まれるということは、一つの縛りであり、煩悩が生まれるということなのだ。

ヤクルトを好きになるということは、このさっぱりよく分からない日々の中、傷つきながらも「勝ちたい」とつい願い、そしてまた傷つくということなのである。特に泣いてなどいない。

それでも、私たちは、この日を待っていた。負ける日々を、待ちわびていた。最下位にため息をつく日々を、待っていた。特に泣いてなどいない。ヤクルト、それはもはや哲学である。よく分からないけど。

ヤクルトという哲学を眺めながら思う。象徴のような、カツオさんを見ながら思う。

例えば180cmの身長で、150キロのボールを投げることのできる投手は、そりゃもちろんそれだけで有利だ。そしてプロの世界には、そんな投手がたくさんいるのだろう。

でもカツオさんはそうじゃない。大きな身体で、速いボールを投げるわけじゃない。

「150キロの速い球を投げる」とは別の目指すべきところを、カツオさんは見つけた。

みんなが目指す場所じゃないところを、目指し続けたから、できることがある。

それは、生きてゆく上で、仕事をする上で、とてもとても大切なことだ。

自分にしかできないことを、する。一見弱みに見えることを、強みにする。

足りないところがあるからこそ、考える。深く深く、考える。

足りないと、思うからこそ、誰よりも努力する。

そうして得たものは、他の誰にも真似できない、150キロを投げる投手にだって真似できない、自分だけの強みになる。

小さな大投手は、その立ち姿だけで、語りかける。

今はこれだけふがいなくても、ハンデを抱えている気がしても、スタートラインに立てていない気がしても、弱い気がしても。

恵まれし隣の人がたくさん持っているものが、自分にはないような気がしても。

でもその人にないものを、自分は持っているのだ。

ヤクルトは、常勝軍団じゃない。恵まれた、とても強いチームじゃない。

でも、他のチームにはない、ヤクルトだけが持つ、何かがあるのだ。

足りないくらいで、ちょうどいい。足りないものを、ファンも含めてみんなで少しずつ補い合いながら、少しずつ、前に進んでいけばいい。

それはヤクルトだけじゃない。今何かが足りないと感じる、誰もに言えることだ。

小さな大投手から、私たちは今年もきっと、たくさんのことを学ぶ。そして小さな大投手に、一つでも多くの勝ちを、つけてあげられるよう(本当につけてあげてください)、今シーズンも、たくさんたくさん応援してゆく。

戦いはまだ、始まったばかりだ。


☆こちらのtop写真は、@motolevel さんよりお送りいただきました!ありがとうございます!


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