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後醍醐天皇と光厳天皇 〜その4 倒幕後の後醍醐天皇の政治(1)〜

歴史の教科書でさらっと通り過ぎてしまう南北朝にあえてフォーカスを当ててみるこのシリーズ。前回、鎌倉幕府の倒幕に向けた後醍醐天皇の動きと、光厳天皇が直面した悲劇について説明しました。いよいよここから、後醍醐天皇の親政が動き出します…さぁどうなる!?

ではさっそく、続きを見ていきましょう。


足利高氏と護良親王の対立

鎌倉幕府の倒幕後、倒幕に貢献した足利高氏と護良親王との間で、対立が深まっていました。後醍醐天皇は、足利高氏を鎮守府将軍・左兵衛督に任命し、一方で息子の護良親王には比叡山に戻ることを勧めました。

後醍醐天皇、部下と息子の対立をなんとかしようと頑張る

しかし護良親王は比叡山には戻らず、武士である高氏たちを束ねる征夷大将軍の地位を求めました。王権をめざす後醍醐天皇にとって、せっかく倒した幕府の、しかも頭領である征夷大将軍の位を息子が求めてくることに、複雑な気持ちを抱えたのではないでしょうか。

後醍醐天皇、権力を握る仕組みを考える

後醍醐天皇は、親政を実現するためには「自分の言うことをみんなが聞く」仕組みを作る必要があると考えました。自分の言うこと・・・つまり、後醍醐天皇の命令を「綸旨(りんじ)」として発布し、それ以外の鎌倉時代の法律などは無効としたのです。

さーて、どうやって権力を握るか…

また、身の回りには自分の手足となって働いてくれる人間を配置し、強大な権力を持つ寺社を朝廷の支配下に入れました。(なぜ寺社が強大な権力を持っていたのかは、第1回「後醍醐天皇の野望と政治」をご参照ください。)さらに、訴訟問題に対応するための「記録所」を復活させ、そこで政治的に重要なことを決めるようにしました。

領土の問題と倒幕の恩賞に対応

倒幕に貢献した武士たちの恩賞も考えないといけません。適切な恩賞を与えないと武士たちは不満を抱えてしまい、反乱を起こしかねないからです。
後醍醐天皇は、「鎌倉時代に北条氏から認められていた土地を、後醍醐天皇の親政においても、引き続き認めてくれるのか」という武士たちの不安を解消するために、「諸国平均安堵法」を出して、彼らの土地の所有を認めてあげたのです。

武士たちの訴えに耳を傾ける後醍醐天皇

権力を盤石なものにするには、地方もしっかり統治しなければなりません。後醍醐天皇は、地方の役所である国衙(こくが)に信頼できる部下を派遣することで、自分の意志をしっかりと伝えられるようにしました。

このあたりのタイミングで、倒幕に最も貢献した足利氏に各地の守護職(軍事・警察職)をやってもらうことにし、足利高氏には自分の名前(尊治)から「尊」の字を取って与え、「尊氏」と名乗ることを許可しました。さらに、尊氏の身分を公卿相当の従三位に昇格させました。

これを見ていた護良親王はどんな気持ちだったのでしょうか・・・

今回はここまでです。後醍醐天皇、政治を上手くやっていくために、いろいろ考えて行動していますね。

次回も、後醍醐天皇が取り組んだ親政の続きを図解してみたいと思います。
お楽しみに!

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