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一般化にこだわってnoteに何も書けなくなった僕の話

タイトルで伝えたいことのほぼ全てが完結しています。あくまで「僕の話」という体で一般化を避けています。


はじめに僕の悪い癖を二つ挙げます。それは予防線を張ること、そしてもう一つは一般化/再現性にこだわることです。

一つ目。noteで何かを主張する前には、必ず「僕の限られた人生経験による帰納的な結論に過ぎない」とか「現象の分析・解釈をする過程で必ず僕のバイアスが混入している」とかいう前置きをせずにはいられませんでした。予防線を張る人は、謙虚だと思われがちですが僕はそのタイプではありません。プライドが高いから予防線を張るのです。相手に指摘される前に、「そこの問題は俺も気づいてはいるんだよ」と言っておきたいのです。

二つ目。noteで人様に文章を見てもらうからには、読んでくれた方に何か持ち帰っていただくものがなければ意味がない、というプレッシャーがありました。しかし、その「何か」を作ろうとして、僕の経験した事象から一般化した法則なりを生成するのは無理がありました。noteを書くからには、「〜とはこういうものである」と主張したいが、その自信も、明確な根拠も持ち合わせていません。人間社会の事象はあまりに複雑すぎて、最終的には「思い込み」「信条」の違いに行きついてしまいます(*もちろん、自分が納得できるレイヤーまで思考を落とし込むことは重要だと思います、これについては別記事でまとめます)。


さて、こうした二つの葛藤を乗り越えて、僕はある仮の結論を得ています。それは加工肉ではなくって、noteではナマ肉を提供しよう、ということです。何を言い出すんだ、とお思いかもしれません。

人間社会における精神的・哲学的で難しい問題に関しては、自分の頭の中で、経験事象を分析して、一般化した法則をこのnoteで提供するのは難易度が高いです。経験事象の一つ一つを、「生肉」に例えましょう。あなたが料理に自信がないなら、加工肉を提供するのはハードルが高い。

だったら、生肉のまま提供してしまいましょう、ということですね。つまり読者の料理の腕を「ナメてない」ってことです。僕が経験した事象を、多少胡椒とか塩で下ごしらえして提供するにしても、あとの調理は自分でやってね、あなた好みのお肉にしてください、というわけです。

* ちなみにこれは、落合陽一氏が言っていたことに因んでいます。
「大学はインストラクションが丁寧な場所ではないってところが面白いと思っていて、それはつまり、君たちの考える力をナメてないってことです」

だって、自分一人で「みんなが大好きなお肉」を作って提供するのは大変なわけです。ガチガチのレアが好きな人もいれば、ウェルダンが欲しいという人もいれば、ハンバーガーにしてから出してくださいという人もいるわけで。

だから、一見すると日常にありふれる一つの経験を、noteで鮮やかに書く人はやっぱりうまいなあ、と思いますよね。そこで描かれているのは一つの経験に過ぎないんですが、その人の解釈なりが、どこかしらから伝わってくるんです。その人は解釈を明示してないから、押し付けがましさもない。しかし、読者が自身のコンテクストに照らし合わせて、ゆっくりとその経験に色付けをするのを、許してくれてるわけです。

物事の本質は、そういうところにこそある、と最近は感じています。既に表出して「〜はこうである」と語られている場所に、もう本質は隠れていないわけです。なぜなら、それはその時点で「常識」になっているからです。一見すると、「つまらない」と感じるその事象にこそ、みんながまだ気づいていないような本質や兆しが隠れているのではないかと、思います。noteはそういった個人の目のつけどころの違いとかをゆったりと楽しみつつ、徐々に人間社会に対する感性を磨いていくための場所でもある、と僕は解釈しています。やっぱりアートな感じがしますよね。




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