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【1ヶ月ぶり2回目】オーハシヨースケさんのアプライドドラマ

画像はオーハシヨースケさんという方の著書です。


昨日ご本人からサイン付きで買ったので、サムネでもって宣伝しようとしましたがサイズが合わなかった(笑)

ので、文末にきちんとした画像を載せます。

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昨日、オーハシヨースケさんのワークショップに参加してきました。


先月に引き続き、2回目です(^^)v

(先月の記事↓)


前回は、誰もが知っている「白雪姫」がテーマでしたが、今回は「ゴドーを待ちながら」という海外の戯曲…?

詳細は↓


私、つい最近の記事でも書いたけど文学が大の苦手なのです。


だからこの案内を見た時も、「ヴラジーミル」「エストラゴン」ってカタカナの人名を見ただけで、ちんぷんかんぷん。


さらには「エストラゴン」を「エスドラゴン」と空目し、ドラゴンや空想上の生き物が繰り広げるファンタジーな物語なのだな!と大いに勘違いをしていました。


はっきり言うと、物語そのものに興味はないと思いました(ごめんなさい)。


だけど、"閉塞的な状況"、"生きる業"、"いかに乗り越えるか"というワードを見て、今の自分に必要な学びがあるに違いない、と思いました。


そして何より、前回参加して楽しかったから、テーマに興味なくても絶対楽しめるという謎の自信がありました。


で、自己紹介の時「前回も参加しました」って言ったら、ヨースケさんに

「こないだ疲れちゃった?(笑)」

と言われ、私が「疲れちゃった人」として認識されちゃっていたことを知りました(笑)


noteの記事に書いてガッツリ発信したからね!



「どーにもならん!」と嘆いていても何も変わらないのだけど

「ゴドーを待ちながら」の内容は、いたってシンプルでした。


「どーにもならん!」と嘆きながら、木の下でゴドーという人(?)を待ち続ける2人の青年。


ゴドーが現れることはなく、「じゃあ行こうか」という話になるのですが、でも2人はその場所から動けない、という。


「こうなってこうなって、こうなりました!」と、はっきりした展開があるわけではないのです。


結局ゴドーって誰だったの、そもそも人だったの?とか、

2人はいつまでそこを動かないんだ?


など、さまざまな疑問が生まれますが、それはつまり


こういうことって、誰にでもあるよね?

という問いかけでもあるのです。


「明日からダイエットする!!」というのが、最たる例でしょうか(笑)


変わりたい、変わってやる!と言いつつ、行動を起こせない状態。


私自身も、そういうことはいっぱいあります。


でも、自分で自分のことはわからなくても、他人事として登場人物の心配(?)をしてみれば「こうすればいいのに」「私だったらこうする」っていう意見がポンポン出てくる。


不思議だね〜(笑)


何気なく描いた絵から、本音がまるわかり!


途中では、絵を描くワークがありました。


「ゴドーを待ちながら」は田舎の一本道の途中が舞台だけど、登場人物の2人はどこから来てどこへ行こうとしていたのか?を絵で表現してみようというものでした。


そして私が描いたのがこちらですが…

相変わらず下手です(汗)


他の人達のを見たら、みんなそのまま額に入れて飾れそう、っていうか美術の授業みたいなの!!


どうしたらクレヨンをそういうタッチで使えるんですか?(泣)



で、私自身の絵の説明ですけど、私は「もう希望がない祖国から、開拓地に行こうとしている」と考えました。



左が祖国。


私の画力で精一杯、「どうにもならん」な状態を表現しました(笑)



で、右が開拓地。

ここで新たな生活を始めれば、少なくとも祖国よりは豊かになれる。



…でも、開墾ってめんどくさいよね!


土壌を整えて家を建てて、畑を耕して、って考えただけでしんどい。



しかも、開墾してったら途中で

みたいなこともあるわけですよ。



そこまでして、新しい暮らしを手に入れたいか?っていう。


ちなみに2人がゴドーとの待ち合わせ場所にしている「一本の木」に関しては



なんにも考えてませんでした( ̄▽ ̄;)


この場所に木があるっていうから、「あーそうだった」って最後に思い出して描いただけ。



これさ〜、音楽に置き換えれば「何でここに休符があるんだろう?」とか「何でここはこういう和音なんだろう?」って絶対考えるところですよ。


やっちまったな(^^;;と思いながら、他の方の絵を見て意見を聞いていました。


しかし、誰かが「なんか自分の気持ちがそのまま絵に投影されているかもしれない」みたいなことを言いだして、私も自分の絵をあらためて見てみたら



「開拓地」の部分は、ラクして一攫千金をゲットしたいという気持ちがダダ漏れているではないですか!!!


あくまで物語の登場人物という「他人」のことを考えたつもりだったのに、結局自分の本音っていう…



えぇ、リスクは極力負いたくないですよ、子どもの頃からしなくていい苦労をいっぱいしてきたから、もう過度に傷ついたり疲れたりしたくないんですよ。


でも自分に訪れる試練が全て「必要のないもの」なのか?というと、決してそうではないんですよね。


それをきちんと見極める力が必要なわけで…



はぁ、つらい_:(´ཀ`」 ∠):



そして、「祖国」のほうは一見自分とどう関係あるかわからなかったのですが、


「悪しき習慣は捨てるべきだけど、捨てるのに勇気がいる」

ってことかなぁと思いました。


手放したほうが楽になるとわかっているけど、自分に長年染み付いてきた習慣は簡単に手放せません。


それが過去の自分にとってつらい状況を乗り越えるための、処世術だったならなおさらです。


(って、うつの治療をしていた時に習ったyo)


え〜やばいやばい、何気なく描いた絵にここまで表れちゃうの!?と、私はびっくりしました。



私はこういう絵しか描けないから、大人になってからは絵を描こうなんて全く思ってなかったけど、絵も描いてみるもんだなと思いました。


「物語は"誤読"していい」

今回のワークショップの中で、私が一番印象的だったのが、ヨースケさんの

「物語は"誤読"したほうがおもしろい」

という話でした。


解釈なんて皆同じでなくていい、どんどん間違ったらいい、そのほうがまたいろんな世界が広がっていくから、というような話だった気がするのですが、


私は誤読ってダメなことだと思っていました。


だって、国語の授業って正しい読解力を学ぶものだし。


学生じゃなくなった今だって、作者の意図と全然違う解釈をしたら作者に失礼かなぁとか…


って思ったことはないけど、考えてみたらそういうふうになるでしょ?(笑)


本って、もっと自由に読んでいいんだね。


そして、感想も自由に持っていいんだね。

(ただ、それをアウトプットするかどうかはまた別の話ですが)


そうすると「えっ、じゃあ学校の国語って何なの?」と思いましたが、

ある程度の、というか基本的な読解力はやはり必要なのかな、と。


読解力を学ぶことは判断力や思考力の向上にもつながるから、ある程度の土台はあったほうがいいですよね。


だから、国語教育が必要ないってことはないはずです。


でも、私はとりあえず、自分が受けてきた教育から自由になろう、と思いました。



文学っておもしろい…のかも?


1週間前に観た舞台「アンナ・カレーニナ」に引き続き、今回も「ゴドーを待ちながら」という問題提起系の文学に触れたわけですが、

やっぱりこういうのおもしろいな

と思いました。


今まで本当に苦手意識の塊だったけども、自分の興味が詰まっているものがこんなところにもあったんだなーという意外な発見です。



…でも、ここから「じゃあいろんな文学を読もう」とかってなるまでには、またいくつかのステップが必要だと思いますが(笑)


そんなわけで、今回のワークショップは前回とは全く違う学びがあり、私はますますアプライドドラマの虜になりました。


なので、また参加したいです(^O^)/


また、昨日の会場ではヨースケさんの著書も販売されていたので、一冊購入しました。

サインしてもらったよ〜


私が苦手なのはフィクションなので、エッセイとかドキュメンタリー、あとこういうノウハウ系は大丈夫なんです(笑)


今日はこれを、ゆっくり読み進めているところです。


↓文学が苦手な私についてはこちらもご覧ください


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