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日々のからだをどう“自分自身”とするのか

Oct 8, 2005(楽天blogより)

日々のからだをどう“自分自身”とするのか


「健康」ということを考えるとき、
その対局にあるのが「病気」であり、
また、全く同じとは言えないまでも「障害」ということがあります。

はたして完全なる健康、健常ということはあるのでしょうか?
健康、健常と言われていることの中身を丁寧に検討してみる
必要があります。

一人の人間の生涯を振り返ってみても、人は誕生してこの世を生き始めた時から
障害を持ちはじめ、刻々と健康を損ない、障害の極みの中で死を迎えると言って過言ではないと思います。
父も母も、兄弟姉妹みんなそうやって死んでいきました。

もう少し範囲を拡げて近隣、友人たちの闘病から死への過程も、
健康、病気、障害のどこを切り口にしても核心に向かえるものでした。
従って、健康だといっても、健康の中に病気や障害があるわけで、むしろそのことを知っていることが大切だと言えます。

弟は言いました。
「朝から飯がうまいんだよ、
 何杯でもお代わりができるぐらい。
 もちろん、俺は喰わないよ。でも何で俺がガンなんだよ」…と。

末期でした。
飯がうまくてダメだとすると、健康の実感はどこで持ったらいいのでしようか。

その上で、病気や障害をどう受け入れ、日々のからだをどう“自分自身”とするのかによって、健康と呼ぶことができるのです。



完璧という意味での健康は幻想に過ぎず、
 事実としては存在しない
〜ということである。
 私の『人間中途半端説』という考え方からするならば
 すべての人間は身体障害者であり、
 すべての人間は精神障害者であり、
 すべての人間は老人である。
 したがって、
 すべての人間は健康ではなく病人である
 
 ということになる」
            (野口 三千三)

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