近代仏教人物誌

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日本におけるダルマパーラ

アナガーリカ・ダルマパーラ(Anagarika Dharmapala 一八六四〜一九三三)はスリランカ(英領セイロン)に生まれた仏教者である。アナガーリカとは本来「出家者」を意味する言葉だが、彼は正式な得度儀式を受けず、有髪のまま黄色い袈裟をまとい、禁欲清浄行を守りながら仏教伝道と社会的実践に従事した。スリランカは比丘戒の伝統が厳守されるテーラワーダ仏教(上座部仏教)の国だが、ダルマパーラは晩年ま

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野口復堂

野口復堂(のぐち ふくどう,一八六四?~?)は元治元年生の「教談家」である。僧侶や学者先生の講演会の余興に、道徳訓話や歴史物語を巧みな話術で披露するのが仕事であった。

本名は善四郎で、旧姓を貫名と言った。復堂の父は京都の商人で、維新後は上京二組の戸長と愛宕郡小山村の村長をつとめた。善四郎の学生時代に出家(日蓮宗)して貫名無着日信と名乗っている。

無著の十三人の子供はほとんど早世したが、残った善

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釈雲照

しゃく うんしょう/1827~1909年/雲照律師/真言宗/『大日本国教論』『予が信仰』/戒律復興を唱えブッダガヤ復興運動にも取り組む

『吾輩は猫である』文中にもその名が記されている釈雲照は出雲(島根県)の出身。俗姓は渡辺。明治初頭、高野山女人禁制の撤廃を伝える新政府勅使に全山恐懼するなか、ただ一人立ち向かった逸話が残る。高野を下った廃仏毀釈の嵐に抗すべく、仏法擁護の建白書を多数したためて京都・

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島地黙雷

しまじ もくらい/1838~1911年/雨田(他多数)/浄土真宗本願寺派(西)/『三条教則批判建白書』『仏教各宗綱要』/政教分離を唱えた真宗指導者

山口県佐波郡和田村、西本願寺専照寺に生まれる。後年、仏教学者の島地大等を養子に迎えるが、黙雷も他寺に婿入りしてから出世した。明治元年(1868)31歳のとき、赤松連城らと本山諸制度の改革を建議し、郷国の防長二州の本山末寺の改革を断行。明治3年(187

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井上円了

いのうえ えんりょう/1858~1919年/甫水・不思議庵・妖怪窟・非僧非俗道人/真宗大谷派(東)/『真理金針』『仏教活論序論』/東洋大学の創設者

「妖怪博士」の異名を持つ井上円了は、新潟県越路町の慈光寺に生れた。地元で神童ぶりを発揮したのち京都の東本願寺(真宗大谷派)で給費生に選ばれ、東大予備門を経て、明治14年(1881)東大文科大学哲学科に入学する。

日本近代化には哲学の普及が急務と考え

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南條文雄

なんじょう ぶんゆう/1848~1927年/浄土真宗大谷派(東)/碩果/『懐旧録 サンスクリット事始め』『梵学講義』/明治を代表するサンスクリット学者

日本の近代サンスクリット学(梵語学)の祖である南條文雄は岐阜県大垣市の大谷派末寺、誓運寺に生まれた。幕末の激変期に青春を過ごし、18歳の頃には大垣藩内真宗寺院の僧侶による僧兵部隊に召集された。維新後は京都東本願寺の高倉学寮に学び、そこで学僧の南条

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清沢満之

きよさわ まんし/1863~1903/骸骨・臘扇など/真宗大谷派(東)/『宗教哲学骸骨』『精神主義』/『歎異抄』を再評価した真宗思想家

満之は、尾張藩士の子として名古屋に生まれた。明治11年(1878)学問を続けるため東本願寺の僧侶となり、留学生として東京大学を卒業し大学院に進む。在学中は井上円了らと哲学館(現・東洋大学)の創設に参与する。明治21年(1888)京都府尋常中学校長に赴任、三河大浜

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高楠順次郎

たかくす じゅんじろう/1866~1945年/雪頂/浄土真宗本願寺派(西)在家/『大正新脩大蔵経』『南伝大蔵経』(編纂)/仏教学印度哲学研究・仏教運動両面の指導者

沢井旬のちの高楠順次郎は、現・広島県三原市の真宗門徒に生まれた。明治18年(1885)創立された西本願寺京都普通教校(文学寮)に進む。翌年、同校で起った綱紀粛正運動「反省会」の発起人となり、明治20年には『反省会雑誌』を発行する。同誌

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大谷光瑞

おおたに こうずい/1875~1948/鏡如/浄土真宗本願寺派(西)/『濯足堂漫筆』『印度地誌』/西本願寺門主22代門主

21代明如の長男で、妻は貞明皇后の実姉というサラブレッド。当時としては巨体といえる183センチの背丈。明治36年(1903)に父の死に伴って門主を継承すると、八千七百余の末寺と約七百万の信徒、そこから献納される膨大な資産を駆使し、汎仏教主義的、大アジア主義的な宗門の世界戦略を

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多田等観

ただ とうかん/1890~1967年/トゥプテン・ゲンツェン/浄土真宗本願寺派(西)/『チベット』『西蔵撰述仏典目録』/チベット留学僧

秋田市土崎港の西船寺に生まれる。友人の誘いで上洛していた時、大谷光瑞の命でチベット留学僧の日本語学習の相手をつとめ、秋田弁を教え込んだ。明治45年(1912)3月にはインドでダライ・ラマ13世と謁見し、そのチベット語学力に感激した13世からチベット名トゥプテン・

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