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【読書コラム】コメントで教えてもらったミステリーを読んでみたら、とんでもなく哲学的で面白かった! - 『シンデレラの罠』セバスチアン:ジャプリゾ(著),平岡敦(訳)

 先日、アップした『変な家』の記事に、BRILLIANT_Sさんからこんなコメントを頂いた。

 寡黙にして、『シンデレラの罠』という小説を知らなかったけれど、語り手が探偵で、証人で、被害者で、まさかの犯人?! というトリッキーな設定にすごく興味を惹かれた。

 事前にいろいろ調べたくなったが、おそらく、ネタバレを踏んだら一巻の終わり。可能な限り、なにも知らない状態で読むべきだろうと身構えて、ささっとAmazonで購入。詳細もレビューも見ないようにした。

 で、読み終えたわけなのだが、すこぶる面白くって、最後のページをめくった後、しばらく身動きがとれなくなってしまった。それぐらい、ラストのラストまでスリリングな作品だった。

 一応、ミステリー史に残る傑作らしいので、すでに読んだ方も多いかもしれない。しかし、これから読む方のためにネタバレは極力避けつつ、感想を記していくと、端的に哲学的だった。かつ、詩的で抒情的だった。

 フランスのミステリーは小学生の頃に読んだモーリス・ルブランのルパンシリーズ以来なので、それがお国柄なのか、それとも作者であるジャプリゾの個性なのか、いまいち判然としないけれど、わたしの好みに合っているのは間違いなかった。

 そして、おそらく、原文がフランス語で書かれていることに意味がある。途中、語り手が知り得ない過去の出来事が一人称で語られるシーンがあり、直感的には矛盾があると思ってしまうが、本来、ここは自由間接話法が使われているはずだ。

 自由間接話法とは地の文と会話文(カッコでくくられるセリフ)の境目をなくし、第三者の話を自分が経験したかのように生き生き語るテクニックである。フロベールが『ボヴァリー夫人』に導入したことで、現代文学最大の発明と称されるようになり、カミュの『異邦人』など、数々の名作に深みを与えてきた特殊な書き方。『シンデレラの罠』はミステリーでありながら、この高度な技術を巧みに使いこなしているのである。

 ただ、この自由間接話法。フランス語の文法に依存したものなので、日本語に訳す際は欠落してしまう傾向にある。だが、訳者の平岡敦さんがスゴいのだろう。そのニュアンスがしっかり伝わるように書かれているので、物語上、必要な語り手の不確かさをちゃんと味わうことができた。

 ちなみに、この不確かさが主要なテーマになってくる。

 まず、記憶喪失になった主人公の語りから物語は始まる。幼い頃のことは覚えているけど、自分がどういう人間だったのか、周りにどんな人たちがいたのか、そもそもなぜこんなことになってしまったのか、まったく思い出せない。

 顔も身体も火傷を負っているらしい。そして、皮膚を移植したので、先生曰く、顔は以前と違っているんだとか。治療の過程でいろいろ教えてはもらえるけれど、果たして、それが本当なのか、わたしにはわからない。自然、頭の中にはクエスチョンマークが積み重なっていく。

 医者も信じられない。看護師も信じられない。後見人と名乗り、引き取りに来てくれた女性のことも信じられない。なにもかもが疑わしい。

 あれ? これってなにかに似てない?

 そう。デカルトが方法序説でやっていたやつである。

 この世界のすべてが疑わしくても、そう疑っている自分自身だけは疑うことができない。我思うゆえに我あり。

 ところが、『シンデレラの罠』はデカルト大先生のありがたいお言葉に真っ向から反例をぶつけているので面白い。なにせ、記憶喪失の人物にとって、疑っている自分自身すら、疑わしい存在なんだもの!

 この合理主義哲学に対するアンチテーゼが論文ではなく、ワクワクどきどき楽しいミステリー小説に共存している点は目を見張るものがある。

 素直に謎解きを楽しめば、自然と、17世紀から20世紀に至る思想史の変遷を辿ることができてしまうのだ。しかも、その文体は先述の自由間接話法などフランス文学史の流れをおさえたもの。見事にもほどがある。

 なお、そんな旅の終着点は実存主義のようだった。ってことは、ジャプリゾは実存主義者なのかなぁなんて思って調べてみたら、『シンデレラの罠』が発表されたのは1962年とあった。

 60年代といえば、世界中で学生運動が巻き起こった頃である。そのバックボーンにあったのは実存主義と言われていて、いまの感覚では信じられないが、サルトルがベストセラーになっていたという。してみれば、ジャプリゾは当時の若者たちの不安を記憶喪失に見立て、実存主義に頼らざるを得ない様子を『シンデレラの罠』というエンタメに昇華させたのだろう。

 無論、これは都合のいい解釈である。その上、早計に過ぎるかもしれない。ただ、そう考えると『シンデレラの罠』がミステリーと呼ぶにはスッキリしない終わり方なのにも納得がいく。

 学生運動の根底にあったのは親世代への不信感だったらしい。あの悲惨な戦争を止められなかった大人たちの言うことにどうして従わなければいけないのか? しかも、朝鮮戦争やベトナム戦争など、冷戦が未だに続いている。戦争を知らない子どもたちこそ、平和を実現できるのではないか!

 DON'T TRUST OVER THIRTY
 30歳以上のやつらを信用するな

 そんな言葉がおおいに流行り、若者たちは自らのレーゾンデートル(存在理由)を探し求めていた。もしや、彼ら・彼女らの心境は、継母のイジメに堪え忍ぶシンデレラに近かったのかもしれない。

「わたしはこの家の子どもじゃない」

 でも、シンデレラと違って、わたしたちは本当にこの家の子どもなのである。悲惨な戦争を止められなかった大人たちから生まれた子どもなのである。

 そのことを忘れようとして、自らをシンデレラと思い込んでしまうところから、新たな悲劇が始まってしまう。甘さとは裏腹、背後には恐ろしい誘惑が待っている。

 戦争に反対しつつ、暴力で他人を傷つけ、ときには人を殺してしまうという矛盾も発生するのだ。日本でも連合赤軍が起こした凄惨な事件などはあまりに有名。なんともやるせない話である。

 さながら、シンデレラの罠と言うべきところか。

 果たして、セバスチアン・ジャプリゾという人がどこまで考えたいのかはわからない。それでも、状況証拠から推理するに、『シンデレラの罠』で時代の空気を反映させようとしか思えない。

 少なくとも、わたしはそう結論づける!

 じっちゃんの名にかけて、真実はいつもひとつだから、ジャプリゾのしていることは全部まるっとお見通しだ!




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