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【時事考察】2531年、日本人全員の苗字が佐藤さんになってしまうらしい。このままだと。

 マジで? と思うニュースを見た。東北大試算で夫婦同姓が続くと2531年には「全員が佐藤さん」になってしまうというのだ。

 これは選択的夫婦別姓の法制化を目指す団体によるシュミレーションで、東北大学高齢経済社会研究センターの吉田浩教授が日本一多い苗字「佐藤」の増加率と人口動態を分析し、導き出した結論なんだとか。要するに、夫婦同姓が続けた場合、具体的な問題が生じますよと可視化することが目的だろう。

 実際、計算の根拠はかなり大雑把。なので、ジョークがたぶんに含まれているのは明らかだけど、これを笑えるか否かは判断がわかれてしまうはず。

 なお、あくまでわたし個人の感覚として、面白い取り組みだなぁと思った。「#2351佐藤さん問題」と名付け、賛同した企業や団体が特設サイトを作り、内容をわかりやすく伝える動画も作られている。ポップな社会運動なので、新たに興味を持つ人がけっこういるかも。

 現在、夫婦同姓が義務化されているのは日本だけ。選択的夫婦別姓が認められることを望む人間の一人として、この理不尽にはついついため息が漏れてしまう。

 ちなみに、夫婦が同じ苗字を名乗るのは日本の伝統と言われることがあるけれど、実際、そんなことは全然ないらしい。例えば、江戸時代には夫婦別姓が当たり前だったと政治学者・中村敏子は語っている。

江戸時代の「家」における夫婦は一体ではなく、かなりの独立性を保って自分の職分を果たしていました。こうした妻の独立性は、「家」に関わるほかの事項についても見ることができます。
 そもそも女性たちは、結婚後も自分の姓を変えることはありませんでした。つまり「夫婦別姓」だったのです(主として女性が結婚により姓を変えるようになったのは、明治民法によります)。「姓」は自分の出自を表すと考えられていたので、女性は結婚後も依然として自分の生まれた「家」の姓を名乗りました。それは、女性が結婚しても、「実家」におけるメンバーシップを保ち続けるという意識があったためだろうといわれています。こうして見ると妻は、自分の「家」(実家)から婚家に出向した社員のようなものだったと考えることができるかもしれません。

PRESIDENT WOMAN Online『「78回結婚した女性が存在」夫婦別姓が当たり前の時代は、もっと男女平等だった』より

 この時期、庶民が氏を名乗ることはなく、武家階級に限られていた。いわゆる苗字帯刀というやつだ。

 一般に苗字が解放されたのは明治3年の平民苗字許可令によるのだが、それは国民一人一人を識別するためだった。明治維新で社会制度が大きく変わる中、統治の方法を抜本的に変えようとしたのである。

 そのため、当初は財産の把握や徴兵が目的だろうと多くの人が警戒し、普及まで時間がかかったという。いまでいうマイナンバーカードを巡るゴタゴタのようで、歴史は繰り返されていく。

 さて、苗字を導入し、個人を特待できるようになったけれど、明治政府は戸籍を管理する上で、従来のやり方、家制度を踏襲する。つまり、家単位で国民を把握しようとしたのだ。

 生まれてから死ぬまでを管理する上で、誰もが実家に所属し続ける方が都合が良かった。なので、結婚をしても夫婦は別姓のまま。むしろ、個人を特定するための苗字がコロコロ変わっては不便だから、明治5年に改名禁止令が出されている。

 とはいえ、武家ならともかく、庶民の実家は必ずしも裕福なわけではない。平気で破綻しただろう。また、なんだかんだ現役でバリバリ働ける夫が文字通り大黒柱となり、家を担うケースが多かったはず。慣習として妻が夫の苗字を名乗るようになっていくのだが、そうしたかったというより、経済的に、そうせざるを得なかった。

 この動きは止めようがない。政府はこれを追認し、明治31年成立の民放で「家を同じくすることにより、同じ氏を称すること」、すなわち夫婦同姓を定めるに至った。

 そう考えると、夫婦同姓であることは家制度にとって必須の条件ではないことがわかる。むしろ、本来の家制度は夫婦別姓が基本だったわけで、その範囲を庶民にまで広げた結果、運用上、夫婦同姓にせざるを得なくなっただけかもしれない。

 なのに、どうして、夫婦同姓が家制度を支えるものになってしまったのか?

 法学者の二宮周平は戦後のGHQによる占領政策が影響していると説明している。

GHQは天皇制の廃止を求めます。なんとか象徴天皇制を残したい日本にとって、天皇制を支えた家制度の廃止は必至でした。ですが、国会議員や戦前の特権階級、地域の有力者や富裕層は財産のある人が多く、自分たちの資産を継承していくために、あるいは思想信条のために家制度を保持したかった。そうした議員をなんとか説得しようと、改正案作成に当たったある民法学者は『制度としての家はなくなるが、家族の共同生活は存続し、家族は同じ氏を名乗る』と説明しています。氏が家と同じ役割をするから大丈夫だ、ということです。当時、ある憲法学者はこのことを見抜いて、『家破れて氏あり』と批判しました。
 その結果、氏は個人の呼称になったはずなのに、実態は男系の氏の継承という家制度の名残として存在し続けています。

朝日新聞『「○○家の嫁」意識なぜ残る GHQと日本側の攻防』

 仮にこの説が正しいとすれば、夫婦同姓にこだわる人の気持ちも理解できる。なぜなら、夫婦同姓の維持は廃止されたはずの家制度を密かに維持するための裏技であり、これを変えてしまったら、本当の意味で家制度が終わってしまうから。約束が違うじゃないかと腹を立てるのは当然である。

 家制度の是非について、ここでは問わない。ただ、戦後に解決すべき問題を棚上げにし、ずるずる、後回しにしてきたツケが現代まで残り続けているということはちゃんと確認しておきたい。

 だって、もともと家制度と夫婦別姓は対立していなかったんだもの。にもかかわらず、戦後の中途半端な決定によって、真っ向からぶつかり合う関係に陥ってしまった。右派と左派を分断する政策課題になってしまった。これはとても不幸なことだ。

 選択的夫婦別姓を求める人の多くは日常生活の便益性を理由にあげている。対して、夫婦同姓を支持する人たちは伝統を理由にあげる。両者の基準は異なっているから、どう頑張っても、折り合いのつけようがない。

 だから、まったく違う角度から夫婦別姓の必要性を考えてみることが突破口になり得るんじゃないかとわたしは常々思ってきた。そして、今回、「#2351佐藤さん問題」の報道を見て、なるほどなぁと感心した。

 これまで、我々は過去と現在の視点で苗字について考えてきた。ところが、視座を一気に広げ、遠い未来を眺めたとき、ベターな答えが導き出せるかもしれない。

 どんな制度も、それが作られた以上、必要としている人がいたのは間違いない。同時に変化を求める人たちは変化を求める必要性に駆られている。賛成派は賛成派の視点で、反対派は反対派の視点で、なにが正しいか判断しようとするわけなので、この対立は弁証法を構成しない。

 じゃあ、どうすればいいのか。

 俯瞰するしかないのだろう。

 もちろん、今回のシュミレーションは選択的夫婦別姓を推進する団体によるものなので、強めのバイアスがかかっていることは否定できない。それでも、夫婦別姓を未来の問題に転換し、新たな形で世の中に問いかけようという試みはとてもユニーク。

 ぜひぜひ、今後の展開を見守っていきたい。




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