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【料理エッセイ】まぼろしの激ウマ唐揚げ弁当を長崎で食べた

 大学一年生の夏休み、キャンパス内で長崎旅行へご招待というチラシをもらった。八月九日を含む三泊四日の旅が食費・交通費込みで無料だという。

 わたしはテンション上がって、みんなを誘ったのだけれど、

「いや、それ、民青のやつだから」

 と、誰からも引かれてしまった。

 そのとき、わたしは知らなかったのだが、日本民主青年同盟という共産党関係の集まりがあり、新メンバーを獲得すべく広島や長崎へ平和を学びに行く研修旅行は毎年企画されているらしい。

 要するに、無料だからと参加をすれば、しつこく勧誘されて困ったことになるよ。タダより怖いものはないんだよ、とのことだった。

 なるほど、言い分はわかりつつ、それまで旅行なんて修学旅行しか経験したことのなかった貧乏家庭で育ったわたしにとって、無料の長崎旅行はとてつもなく魅力的だった。

 結果、一人、申し込んでいた。

 蓋を開けてみると、それは勧誘を目的としたものなんかではなかった。むしろ、民青の夏合宿という雰囲気で、端的に言って共産主義に傾倒していない参加者はわたしみたいな一年生、三人だけ。

 それからは後悔の連続だった。

 新幹線で行くのか、飛行機で行くのか、どっちなんだろうとワクワクしていたわたしが集められたのは新宿駅西口のバス乗り場。ってことは羽田空港に運んでもらえるんだろうと思っていたら、あっという間に東名高速を走っているから驚いた。なんと、長崎までバス移動だった!

 三泊四日というけれど、実際のところ、行きも帰りもバスで寝なくてはいけないから宿に泊まれるのは一日だけだと、そのとき知った。

 狭いシートでかろうじて眠ってはみたが、朝、起きると身体はバキバキだった。むかし、『水曜どうでしょう』で夜行バスに乗った際、ミスターが「夢見たんだよ。ケツのね、肉がとれる夢」と言ったシーンがあったけれど、その気持ちが痛いほどわかった。

 そんな風に疲弊し切ったわたしたち一年生トリアに反して、委員長の先輩はテンション高く、

「新聞だぞー」

 と、赤旗を配り歩いていた。

 ああ、やっぱり、民青の中では新聞といえば赤旗だから、わざわざ赤旗だって言ったりしないんだなぁ、と感心していたところ、年齢不詳な別の先輩が、

「おい! 赤旗を当たり前のように新聞って言うんじゃねえ」

 と、元気にツッコミ、車内が大きな笑いに包まれた。共産党ジョークだったのだ。

 長崎に着いてからも苦難は続いた。初日の八月八日は到着した十二時頃から、コンビニおにぎりを支給され、ひたすら研修に研修を受けさせられた。

 二〇一一年のことだったので反原発の集いにはじまり、地元長崎で原爆の記憶を語り継ぐ人たちの会議にも参加させられた。

 特に印象的だったのは、語り部の世界にも、序列があるということで、ベテランの人たちが新人に指導していたのが興味深かった。

 たとえば、新人はみんなの前でしゃべることに慣れていないから、つい、笑いをとろうとしてしまう。でも、それだと戦争の悲劇を伝える上でマイナスだから避けるようにと指導されていた。

 その方針には一理あると感じながらも、それぞれの人がそれぞれのやり方で思いを語り、聞き手が複合的に考えることも重要だとわたしは思っていたので、ほんのちょっと心がモヤモヤしたことを覚えている。ただ、語り部は基本的にボランティア。それを継続していくことは部外者には想像もつかない苦労があるのだろう。

 活動を未来につなげていくため、二世、三世の語り部をいかにして育成できるか真剣に議論を重ねていた。わたしもせっかくだし、写真や動画を利用するなど、デジタル技術が役に立つのではないかと提案してみた。若い子が来てくれるとそういうアイディアがもらえるから嬉しいと喜んでもらえた。

 そんなわけで、研修は意外にも充実していたけれど、気がつけば夜も遅くなっていた。とりあえず中華街に連れて行かれて、ちゃんぽんをご馳走になったものの、グラバー園とか軍艦島とか観光名所を訪れたいのだが! とフラストレーションが溜まった。

 ホテルまでの道のり、一年生トリオでこのままじゃ終わらないと共謀し、三人で民青の人たちを撒くことに決めた。横断歩道の青信号をあえて渡らず、ダダッとカーブを曲がって走り去った。

 久々の自由。わたしたち三人はワイワイ、ガヤガヤ盛り上がりつつ、ガラガラの路面電車に飛び乗った。さあ、どこへ行こうか。スマホでいろいろ調べてみるも、時刻は二十時をまわっているのでどうしようもなかった。

 そのとき、委員長から電話がかかってきた。恐る恐る出てみれば、

「無事でよかった。心配したよ。途中、道で迷ってしまったのかな。申し訳ない、俺が君たちのことを確認せず、どんどん進んでしまったから。ぜひ、タクシーを使ってホテルまで帰ってきてくれ。もちろん、支払いは俺がするから心配するな」

 と、一方的に捲し立てられた。

 わたしたち三人はなんだか申し訳なくなってしまって、コンビニでお菓子を買うだけ買ってから、歩いてホテルに戻ることにした。

 翌日の八月九日は原爆資料館へ行き、慰霊平和祈念式典に参加した。隣に社民党の集まりがあって、共産党の人たちとちょっとしたトラブルが起きたりしていた。いわゆる左翼同士でも、必ずしも意見が一致するわけではないんだなぁと眺めていたが、黙祷の時間が近づくにつれ、お互いにまあまあと譲り出したので、平和を愛する気持ちはどうやら同じらしかった。

 式典が終わると公園の前に見覚えのあるバスが並んでいた。そうか、もう帰らなくてはいけないのか。本当は皿うどんだったり、角煮まんだったり、トルコライスだったり、堪能したい長崎グルメはいっぱいあったので、正直、気乗りはしなかった。

 しかし、脱走をしても、純粋な委員長を困らせることになってしまうとわたしたちはよくよく知っていたので、誘導されるまま席に座るざるを得なかった。

「昼飯だぞー」

 委員長が元気にお弁当を配り始めた。唐揚げ弁当だった。まったく、これが長崎最後の食事だなんて、とてもじゃないけど信じられなかった。

 ただ、前方の席でいち早く受け取った先輩が、

「なんじゃこりゃ。うまい、うま過ぎる!」

 と、雄叫びをあげたと思ったら、絶賛の声があたり一面に伝播したので、ほんのちょっとテンショウが上がった。

 唐揚げが美味しいのはわかるけれど、いくらなんでも大袈裟過ぎるとドキドキしながら一口食べると、わたしも、

「うまい、うま過ぎる!」

 と、無意識に叫んでいた。

 あれから十年以上経った後、改めて、観光のために長崎を訪れた。今度こそ、グラバー園を見て、軍艦島に上陸し、皿うどんも角煮まんもトルコライスも食べ尽くした。

 でも、わたしが本当に長崎で食べたかったのはあの唐揚げ弁当だった。

 ネットで調べたら、現地の人に聞いてみたり、いろいろ試みてはみたけれど、異様においしい唐揚げ弁当と再会することはできなかった。

 委員長はいったいどこであの唐揚げ弁当を買ったのだろう。結局、わたしは民青に加入することはなかったし、東京の集会に誘われても毎回断っていたので、委員長とも自然と疎遠になってしまったけれど、まぼろしの激ウマ唐揚げ弁当の正体だけはちゃんと聞いておけばよかったと未だに後悔してしまう。




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