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【読書コラム】「横尾忠則 寒山百得」展がファナティックで必見以外のなにものでもなかった ー 『寒山拾得』森鴎外

 学生時代からお世話になっているアンドレさんに誘われて、上野は東京国立博物館で開催中の「横尾忠則 寒山百得」展を見てきた。

 正直、わたしは寒山拾得のなんたるかを知らなかったので、アンドレさんから、

「寒山と拾得は唐の時代の伝説的な詩僧で、風狂として名高く、古くより絵画や文学のモチーフになってきたんですよ」

 と、教えてもらえて助かった。そして、普通は、寒山が経典を、拾得が箒を持って描かれるらしいのだが、横尾先生は経典をトイレットペーパーに、箒を掃除機に置き換えてしまったと説明され、そのアバンギャルドっぷりにワクワクが止まらなかった。

クラシカルな建物に燦然と輝く現代絵画が最高にカッコいい

 さて、普段は国宝がずらりと並ぶトーハクにこれでもかと陳列された横尾忠則版寒山拾得102点はあまりに圧巻。どう考えても必見だった。

 なにが凄いって、脱構築された寒山拾得の新解釈がひたすら続いていくのだけれど、添えられた日付を見る限り、数日に一枚は仕上げているのだ。ときには一日で何枚か描いているケースもあり、素直に驚愕させられる。

 もちろん、ただ、描くスピードが速いだけじゃない。内容だって高度も高度。トイレットペーパーを持った寒山と掃除機を抱えた拾得の二人は自由自在にいろいろな世界を旅して回る。

 モチーフから連想される環境や人物が現れるだけでなく、結婚式だったり、タイっぽい乗り物だったり、大谷翔平の笑顔だったり、恐らく横尾先生自身の経験に即していると思しき状況まで飛び出してきて、さながら狂想曲の装いだった。

 特に面白かったのは連想によって登場してきた「赤絨毯」の存在感が増し始め、いつしか「赤絨毯」を軸に作品が展開していくところ。象がゴッホに、ゴッホがロビンソン・クルーソーに、マネの『草上の昼食』に、『納涼図屏風』に、ドン・キホーテに、ハックルベリー・フィンに、アラジンに、次から次へ移り変わっていく。そして、「赤絨毯」が空飛ぶ絨毯となったところで、寒山も拾得も飛行能力を身につけて、ついには箒にまたがるハリー・ポッターと化してしまうのだ!

 ちなみにこれで中間地点。まだまだ進化は止まらない。ファッション誌や東京オリンピック、アルセーヌ・ルパンとも融合。アインシュタインが混ざったところで寒山と拾得は幾何学に達し、概念となってしまう。

 これについては、

森鴎外「寒山拾得というのは実在しているのではなく教理なんじゃないかな。そこに流れているのが寒山の実態じゃないかな」

横尾忠則『原郷の森』最終章504頁より

 と、会場でも引用されていた一節に詳しく、ここからのクライマックスも半端なかった。

 教理となった寒山と拾得。二人はカタール開催のワールドカップを反映するかのようにサッカーを楽しみ、やがて、本展示のポスターを飾る抽象的極地を演じるに至る。

 ピークを迎えた直後、拾得は人間らしさを取り戻し、観念の寒山と真っ正面から向き合う。それから、晩年のピカソのエロチカシリーズに通じるような構図を経て、元ネタである曾我蕭白『寒山拾得図』らしきタッチが完成。なるほど、これまでのすべてはここに辿り着くまでの道のりだったのかと我々はカタルシスに包まれる。

 なお、展示はこれで終わりじゃなく、さらにカタルシスの向こう側もあるのだけれど、ぜひ、それは会場で体験して頂きたい。

 と、長々、わたしなりの「横尾忠則 寒山百得」展を語ってはみたものの、実は会場にキャプションがなく、作品のタイトルも振られていないので、自分の見方が正しいのか、やや不安ではある。でも、帰りの電車で読んだ図録によれば、

作者である横尾は、102点の寒山拾得を「自由に見てもらいたい」と何度も口にしている。

横尾忠則寒山百得展図録より

 と、書いてあったので、仮に見当違いの解釈であったとしても、それはそれでいいのかなぁなんて思ってもいる。

展示を見たら必ず図録を買うことにしている

 いやあ、そんなわけで、めちゃくちゃ素晴らしい展示を見たと幸せな気持ちで帰宅したわけなのだが、今日という一日はめでたしめでたしで終わらなかった。

 別れ際、アンドレさんから、

「森鴎外が寒山拾得を書いていて、短い文章だから、ぜひ読んでみて」

 と、言われたことが気になって、夜、布団に入り、眠りに落ちるまでの時間、暇つぶしに青空文庫を眺めてみれば、そのとんでもなさに目はギンギンに冴えてしまい、結果、いま、こんな時間にこんな記事を執筆しているのだから大変だ。

 なんというか、森鴎外の『寒山拾得』は簡単な話であるにもかかわらず、めちゃくちゃに難解で、なにが言いたいのかさっぱりわからないのである。調べると名作『高瀬舟』を書いた二日後にささっと仕上げたものらしく、森鴎外自身、『寒山拾得縁起』というエッセイでその旨語っている。

 なんでも、寒山拾得なんて知りもしない子どもが宣伝文句に惹起され、寒山拾得の本を欲しがったので、子どもが読んでも仕方ないと諌めるため、寒山拾得ってどんな人なのか教えてあげたんだとか。

私はちょうどそのとき、何か一つ話を書いてもらいたいと頼まれていたので、子供にした話を、ほとんどそのまま書いた。いつもと違って、一冊の参考書をも見ずに書いたのである。

森鴎外『寒山拾得縁起』より

 こうして『寒山拾得』は制作されたんだとか。

 あらすじはこうだ。むかし、頭痛に悩まされている偉い人が乞食坊主のまじないで完治。その乞食坊主から寒山と拾得に会いに行くよう言われ、その通り訪ねてみれば、寒山と拾得は大きな声で笑い、逃げてしまう。偉い人はまわりにいた坊主たちにたかられ、寺の責任者は冷や汗をかく。

 本来、各人物には名前があり、歴史的に意味のある人たちなんだけど、わかりやすくするため、あえて寒山と拾得以外は一般名詞で書いてみた。一応、ストーリーは理解できるだろう。でも、だからなんなのか。果たして説明できるだろうか。いや、無理だ。

 ちなみに森鴎外自身、

子供はこの話には満足しなかった。大人の読者はおそらくは一層満足しないだろう。子供には、話したあとでいろいろのことを問われて、私はまたやむことを得ずに、いろいろなことを答えたが、それをことごとく書くことは出来ない。

森鴎外『寒山拾得縁起』より

 と、言っているので、満足いかないぐらいが狙い通りなのかもしれない。ただ、仮にそうだとしても、この消化不良をなんとかしたいと思うのが人間ってやつではないか!

 ここでふと、なぜ、横尾先生があれほどファナティックに寒山拾得を描きまくっていたのか、ほんのちょっとわかった気がした。

宇宙霊人「Yさんがこのところ寒山拾得を集中的に描いているのは拾得が箒を持っているように、Yさんが心のお掃除をしているのです。」

横尾忠則『原郷の森』最終章489頁

 たぶん、すぐに答えは出ないのだろう。わたしもわたしで、わたしなりに寒山拾得を追求しなければいけない。そんなことを静かに思った。その瞬間、「横尾忠則寒山百得」展に対する尊敬が、盲目から、追いかけるためへと目的を伴い始めた。少なくとも、そんな気がした。

盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。

森鴎外『寒山拾得』より

 森鴎外はそんな風にニヒリズムをちらつかせる。しかし、現実問題、ファナティックにならざるを得ないこともあるんじゃないかなぁ。なんて、ファナティックに森鴎外を考えながら、わたしは大きなあくびをしている。

 さすがにもう寝よう。

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