【読書コラム】なぜラブソングは世界中を敵に回しても君を守りたくなるのか? - 『ヒトは〈家畜化〉して進化した―私たちはなぜ寛容で残酷な生き物になったのか』ブライアン・ヘア, ヴァネッサ・ウッズ, 藤原多伽夫(訳)
半年以上前のこと。YouTubeでサトマイさんの動画を見ていたら、興味深い本が二冊紹介されていた。
一冊目は『先生、どうか皆の前でほめないで下さい: いい子症候群の若者たち』というラノベのタイトルみたいな本。
なんでも、最近の大学生には、
・素直で真面目
・受け答えもしっかりしている
・人の話もよく聞く
・言われた仕事をきっちりこなす
という傾向があるんだとか。一見すると「いい子」なんだけど、
・自分の意見は言わない
・質問を求めても手を挙げない
・先頭を切って行動に出ない
という特徴もあるようで、主体性はないらしい。
その背景に、変なことを言って浮いたら怖いという心理があると動画では説明されていた。
なるほど、それなら気持ちはわかると思う一方、だったらどうして「いい子」になるのか不思議だった。別に「いい子」にならなくても、普通にしていればよさそうなものなのに。
で、この本を購入し、実際に読んでみたところ、「いい子症候群」はそんな単純な話ではなく、より時代に即した悩みなんだと理解できた。
というのも、「いい子症候群」と分類される若者たちはいわゆるデジタルネイティブ世代であり、子どもの頃からネットカルチャーに接してきたので、炎上をいくつも見てきているし、友だちともSNSでつながり、叩かれる恐怖が身近に存在しているというのだ。
ネットで叩かれる人たちというのは主に二種類。とにかく目立つ人たちと無能な人たち。自分が誰からも叩かれないように振る舞おうとしたら、消去法で、「いい子」だけど「目立たない」以外に選択肢は残されていない。
要するに、「いい子症候群」とは若者の防衛本能が導き出した巧みな生存戦略なのである。
このことを踏まえてなのだろう。サトマイさんは二冊目に『ヒトは〈家畜化〉して進化した―私たちはなぜ寛容で残酷な生き物になったのか』という示唆的な本を紹介していた。
たとえば、オオカミが人間によって友好的な犬に進化させられたのではなく、人間と仲良くした方がエサを貰えて有利なので、自然淘汰の結果、友好的な犬に自ら進化したという考え方を自己家畜化仮説と呼ぶらしい。
この本はその自己家畜化プロセスをヒトも経てきたのではないかと提唱するもので、サトマイさんは若者の「いい子症候群」もこれに関係しているのではないかと推測していた。
これまたとても興味深く、すぐに購入したのだが、三百ページの学術的な内容に恐れをなして、積読の山に置いたまま、長いこと放置してしまった。
ただ、最近、おかげさまで暇になり、本をどんどん読み進めることができているので、ようやく読破することに成功。やっぱり、本はちゃんと読まなきゃダメですね。想像以上のことが書いてあり、ひたすらに面白く、かつ、恐ろしかった。
どういうことかというと、ヒトの自己家畜化は武力だったり、経済力だったり、一緒になると有利な相手と仲間になる形で形成されていったんだとか。言ってしまえば、それは権力の誕生であり、派閥を形成するようなもの。
格上の人物に気に入られるため、家畜化したヒトは仲間に対し、ご機嫌をとるようになる。媚を売ったり、調子のいいことを言ったり、贈り物をしたり、便宜を図ったり。一方、他の派閥に対しては攻撃的になる。なぜなら、他の派閥が勢力を拡大すれば、自分もろとも危機に瀕するわけだから。
そういう派閥の争いが繰り返される中で、人類は家族を作り、村を作り、町を作り、国を作ってきたのだろう。
仲間の範囲は広がるにつれ、自分が所属するグループのメンバー全員を把握できなくなったとき、とりあえず、仲間否か、見た目で判断するようになっていく。人種差別が始まりである。
白人の他人種に対する意識調査が掲載されていた。白人を百点の人間としたとき、他の人種は何点の人間だと思いますかと尋ねた結果、軒並み、百点より低く見積もってしまうらしい。しかも、国際的なテロ事件などが発生した後、同じ評価テストを実施すると、犯行グループを構成している人たちの点数はさらに下がってしまう。
例えば、911テロ後のアメリカ人に、イスラム教徒は自分たちより何十点も低い人間に感じられた。同じ人間ではないから、殺すことに抵抗もなくなった。それは牛や豚や鳥を殺すようなもの。躊躇う理由がどこにある? 人間の平穏な暮らしを守るために必要なことじゃないか、と。
もちろん、これは白人だけの問題ではない。日本だって、太平洋戦争のとき、中国や朝鮮の人たちを蔑称で呼んだり、アメリカ人を鬼畜米兵と呼んだりしてきた。ナチスもユダヤ人を劣等な遺伝子を持っていると主張していた。プーチンはウクライナ侵攻の理由として、「あいつらはネオナチだ」という説明している。ハマスとイスラエルの論理も互いに互いを貶し合っている。野蛮な行為を正当化するため、征服相手の非人間化が繰り返されてきた。
自己家畜化仮説は、自分が所属しているグループの優位性を示すため、他のグループを敵とみなす人間の愚かな振る舞いを見事に説明してくれる。それはまるで、僕と君が特別な関係であることを伝えるため、世界中を敵に回しても君を守ると約束するラブソングのようではないか。
だとすれば、わたしは世界中を敵に回すほどの愛なんて必要ないと本気で思う。そんなやっかいなしがらみより、道ですれ違ったとき、誰とでも挨拶するぐらいの「ゆるい愛」で世界がつながっていてほしい。
ナチスの迫害に遭ったユダヤ人を救った人たちは何人もいる。彼ら、彼女らは男性だったり、女性だったり、金持ちだったり、貧乏だったり、若かったり、年寄りだったり、一見すると共通点はゼロ。ただ、唯一、みんな、ユダヤ人の知り合いがいたことだけは共通していた。
知り合いを非人間化することはできない。目と目を合わせて、会話して、笑い合った相手が人間でないとどうして言えよう。
ノーベル賞作家のカズオ・イシグロはコロナ禍のインタビューで、分断していく時代を乗り越えるヒントとして、「縦の旅行」を推奨している。
世界平和という途方もない夢を実現させるために、我々はまず身近なところから知り合いを増やしていく必要がある。それを繰り返していくうちに、あらゆる事件や事故、災害、戦争の当事者が知り合いの知り合いになっていく。そうすれば、すべてのことはすべての人に無関係でなくなる。無関係でなければ、きっと、なにかしたくなる。いや、しないではいられない。
二〇二三年現在、世界の人口は八十億人を突破した。少子高齢化の日本にいると信じられないが、今後も右肩上がりで増え続ける見込みだ。
そう聞くと、世界中がつながるなんて不可能に感じられるかもしれない。でも、ネットワーク理論のスモール・ワールド現象を信じるなら、そんなにあり得ない話でもない。自己家畜化仮説同様、未だ、仮説の域を出ていないけれど、知り合いの知り合いと辿っていけば、世界中のどんな相手にも六人目で到達するという「六次の隔たり」は希望に満ち満ちている。
人間をちゃんと人間扱いする。そこに例外を設けない。犯罪者や得体の知れない人物を前にしたとき、その決意は揺らぐかもしらない。きっと、困難な道だろう。でも、あまりにくだらない理由だ亡くなっていく人たちの無念を考えれば、いまこそ、我々はその困難を乗り越えてやろうじゃないか。
たぶん、ジョン・レノンはそんなことを本気で訴えていたのだ。
クリスマスぐらい、バカなフリして、そんな夢を見ていたい。
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