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ついつい仏教ネタは深掘りしがち

長男と楽しく続けている、日本史の勉強。

日本史をやっていると聖徳太子のあたりから、何度も仏教の話はでてくる。
基本的に、この時間は学校で習う歴史の授業の前に、先行オーガナイズということで、大枠だけさらっとやるつもりで始めたのだけど、職業柄、仏教ネタになると、ついつい深掘りしてしまう。

奈良~平安の仏教ネタ

聖武天皇の時代には、行基がいて、大仏が出来て、鑑真も日本にきた。

「奈良の大仏」といえば、歴史や仏教への興味がなくても、知らない日本人はいないだろう。

当時の高度な金鍍金技術、そして、水銀の蒸気で、きっと多くの職人さんが亡くなったであろうという話。

正倉院には、日本で現存する最古の念珠が所蔵されている。
ちなみに、正倉院のwebサイトで検索、閲覧できる。

そんなことをついつい盛り込んでしまう。

最近は平安時代のあたりやっている。

この辺りの山場といえば、唐から帰って来た最澄と空海。(一般的には、ごく軽く流される。笑)

空海は御請来型の念珠といって、中国でいくつかの念珠を持ち帰っており、このときの形を踏襲した念珠は、今でも使われている。

比叡山、延暦寺・・・・高野山、金剛峯寺・・・と、呪文の様に丸暗記をした人も多いかもしれない。

何度も書いてるけど、僕は中高の歴史の成績はたいてい「2」で、最澄と空海については内容と言うより、学校で習ったことすらまったく記憶にない。

それが、いまでは仏教の知識というのは仕事であり生活の一部になって、この二人が現代にどう生きているか、そして、比叡山から輩出された各宗派の祖師は・・と、止まらなくなってしまう。

藤原道長の頃には、末法思想が広まって、浄土への憧れが強くなった。
そして、頼通が建てた平等院鳳凰堂の話へ続く。

必然的にこんな会話になる。

「浄土にいる仏様って何如来だと思う?」

「えっと・・アミダ如来?」

ご名答。そう、だから鳳凰堂には阿弥陀仏が安置されている。

宗派って難しい

息子と話していてふと思ったけど、歴史の中に宗教の話が出てきたときに、「宗派」って、概念的に理解するのが難しい時代になっているのではないだろうか。

団塊の世代と呼ばれている人たちくらいから、「宗教ってなんか怖い」っていう、そういう人が増えてきた。たぶん、あの事件以来なんだと思うけど。

うちの念珠を求めるお客さんに聞いても、自分の宗派などよくわからないと答える人も多い。自分の宗派のことがわかっていれば立派なほうで、よその宗派のことまで、ある程度体系的にわかっている人というのは、一部の仏教オタクという扱いになってしまうくらい。

例えば、空海ー真言宗、最澄ー天台宗、などとセット覚えるように、テキストにも書いてあった。

人名はいいとしても、中高生、ましてや小学生が、「真言宗」「天台宗」ってなんの事だかわかってるのかな。

そして、先生たちは、どうやって伝えていくのか。
いや、触れてはいけないのだ。公立学校で宗教教育はできない。

えー、なんかへんなの。

真言宗がなんなのか、天台宗はなんなのか、なぜ人々は浄土に憧れたのか、そもそも浄土ってなんだ?

中身に触れずに、空海や最澄、平等院鳳凰堂のことを教えなければいけない。

決して言ってはいけない。ヴォルデモートかよ。

宗教教育って

教育基本法に、次のようにある。

第9条 (宗教教育) 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。

② 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

改めて読むと、公立で宗教ダメってよく言われているのは、第2項の話なんだな。

そして「特定の宗教」というグレーな表現。たとえば、現状で日本国内の寺院数の多い仏教教団を一通り勉強しても、少数派や新宗教は含まれないため、偏りが出てしまう。そうなってくると、神道だって均等にやるひつようがあるし、世界の三大宗教に絞っても、それ以外を無視する形になる。

だから、宗教の中身を教えることは、実質禁じられている法律であるように感じる。

そのような条件の中で、「教育上これを尊重しなければならない」ということに、とても違和感を感じる。

寛容や尊重ではなく、無関心になってしまった。

宗教のことは家庭で学べということなんだろうね。
今、小学校に通っている子達は、無関心になってしまった孫の世代と考えると、家庭環境に期待するのは、もう絶望的。

自分まで繋がっている歴史、宗教

歴史の話に戻ると、武士の時代にも出家する人は多く、仏教の話はつきまとう。

うちでは仕事の関係で、幸い多くのお寺とご縁があるため、子ども達も一緒に足を運ぶことが多い。

真言宗のお寺を説明するときに、浄土真宗のお寺と合わせて思いだしてもらうと、本堂の作りや仏具が全然違うことがわかる。

天台宗は北海道に非常に少なく、子どもの実体験をたぐって説明するのは難しい。

比叡山には子どもが小さい頃に一緒に行ったけど記憶が薄い。でも、天台宗の多様性を説明するために、念仏と法華経を持ち出せば、浄土宗や浄土真宗、そして日蓮宗のお寺というのは、子どもの中でもイメージがある。

そして、それぞれの宗祖が若きに日には、比叡山で修行していたというのは、とてもわかりやすい。

こんな風に、子ども1人ずつの記憶と体験に知識を結びつけていく作業は親にしかできない。

学校では決して習うことができない、家庭学習の醍醐味はこんなところにあるんじゃないかな。

ちなみに、「醍醐味」も仏教由来の言葉だね。

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