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Re:本 『わたしのいるところ』ジュンパ・ラヒリ(Jhumpa Lahiri) 中嶋浩郎 訳

 一言で言えば、音のしない本。
現代文のテストで副題を提案されたなら、「静謐」と表現するかもしれない(正しく漢字が書ければ!)。
46の短編が連なる「長編小説」とあるが、どこを切り取っても一枚の絵のような情景が見える。解釈次第でどんなふうにも読み取れるという点では、絵画よりも水墨画に近い、あるいはアジア的と感じた。

作者の母語---ロンドン生まれのベンガル人としてのそれを英語とするなら、だが---ではなく、自ら選択したイタリア語で執筆した小説であることはもとより、「自己」と「外界」とを常に考え続ける主人公の姿勢が、その世界を成しているからだろう。訳者あとがきにあるように、作者は「より特殊性を排除しようとして」、固有名詞をなるべく使わず常に「わたしのいるところ」を視点にした情景を、淡々と描写している。わたし自身は、その静かな波長を心地よく感じた。一方で、人によっては嫌悪の対象になるかもしれないとも思う。あまりに独特で、ひとりよがりだ、といったような理由で。

 そのくらい主人公は「わたしの世界」から外界を見ている。だから、わたしの世界ではわたしの鼓動と、わたしの言葉だけが響き、あとは静寂が大半を占める。時に息継ぎをする、切実な呼吸音に交じってだけ、外界の音が入り込む。それは壁にある汚れた貼り紙を目にしたり、バールのご主人のやさしさに触れたりして、ふと心が動いた時。あるいはホテルで隣り合うよその国の哲学者に、胸高鳴る時。
 だからこそ、うまくいかない時の苦悩は、他者との口論という形で、逆に音だけが際立つ。相手の態度や言葉に具体性はない。自身の苛立ちだけが、たぶん、うわんうわんといった音のうねり---大きくなったり小さくなったりする、まさに音の波---になって、文章になる。すこし、乱暴な形で。
そして、今はいない自身の父親との関係性、離れて暮らす母親との距離の取り方、客観的に振り返る自身の幼少期を思う時にだけ、彼女は深く呼吸ができるのかもしれない。一段深いところに自分を運んでいくことで、少しだけ音が、それは過去の音でもあるのだけれど、復活するように感じられる。苦しいけれど、同時に彼女には安寧をもたらす、深い呼吸音なのだと思う。

快も不快も「抽象的」であり、同時に「普遍的」でもあるのだろう。誰もが抱えている、外界との接し方を探して、作者はイタリア語という別の言語に漂着したのかもしれない。文字通り、自身の生み出す音の波に身を任せた結果として。
日本語を母語として日本で暮らすわたしには母語ではない別の言語を選ぶ、選ばざるを得ない必然性が、おそらく本当の意味では理解できていないだろう。しかし現実に、例えば常に隣国と接しあう欧州で、そう「ならざるを得ない」マルチリンガルという境遇にあろうが、ある意味そのひりひりした感覚を持ちづらい日本という国に住まおうが、「自己」と「外界」の関係性は常に立ちはだかる。その正体を「孤独」というひとことで片づけるには、わたしたちの世界はあまりに複雑で、同時に曖昧だ。

終盤、自身の「そっくりさん」を追って街中を歩き、不意に見失う場面には、音がない。なのに、とてもにぎやかに感じられる。そのにぎわいは、「今いるところ」を去ることを決めた、彼女の呼吸音が穏やかだからなのかもしれない。旅立つ列車で行き会う、知らない言語を繰るエネルギーあふれる若者集団が奏でる音楽は、だから、大音量なはずなのに、音がしない。
彼女を取り巻く音が大きくなったり小さくなったりしながら彼女の世界はつづく。どの町にいても、誰といても、何をしていても、彼女自身が、息ができると決めた、そこが「わたしのいるところ」。

それにしても、だ。これを日本語訳で読んでしまえるのは、たいがいの言語の専門家(翻訳家)がいる日本という国の、言語的裕福度が高いからでもある。これはしあわせでもあり、その対極も同時に味わっているのかもしれない、という気持ちもぬぐえない。    2024.01.24

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