世界の中の日本②リトアニア人が絶対に知っている日本人とは?
いつも記事をご覧下さり、本当にありがとうございます!
「世界の中の日本」は、世界の国と日本の関係について、国ごとにご紹介していく企画です。
2回目の本日、ご紹介するのが、リトアニアです!
リトアニアはバルト三国と呼ばれる国の一つで、ヨーロッパの北東にある人口300万人ほどの小さな国。
え?なんでリトアニア?と思った方。
実は、リトアニアと日本はある方によって、深い絆があるんです。
日本人というだけで、「ありがとう」と言われることもあるというリトアニア。
さっそく紹介していきます。
リトアニアとは?
リトアニアはエストニア・ラトビアと合わせて、バルト三国と呼ばれる国の一つ。
美しい緑が広がり、バルト海に面しているため、夏には海水浴を楽しむこともできます。
首都はビリニュス。ヨーロッパ最大の旧市街があり、ユネスコの世界遺産に認定されています。
1991年にソビエト連邦から独立し、EUに加盟。
現在は先進国の一つとなっています。
リトアニアと日本人
リトアニアと日本人は縁が深く、親日の方が多いと言われています。
リトアニア人が絶対に知っている日本人。
この尊敬を集めている日本人こそが、第二次世界大戦時にリトアニアで外交官をしていた杉原千畝氏です。
杉原千畝氏は、ナチスにより迫害されていたユダヤ人に対し、特別な通過ビザを発行し、6,000人もの命を救ったといわれています。
リトアニアのカウナスにあった領事館は、そのまま杉原千畝記念館となっており、今も世界中から観光客が訪れています。
外交官・杉原千畝の英断
杉原千畝がリトアニアのカウナスにある領事館に赴任したのは1939年。
当時は第二次世界大戦中で、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害が激しくなっていました。
リトアニアにも、ドイツに侵攻されたポーランドから逃れてきたユダヤ人が多く流入しており、問題となっていたそうです。
リトアニアにも、いよいよナチスの侵攻が迫っていたある時、リトアニア領事館の元を、大量のユダヤ人が押し寄せます。
ナチスによって強制収容所に送られることを恐れたユダヤ人が、国外脱出の通過ビザを求めて、領事館に殺到したのです。
ユダヤ人の多くは、ソビエト経由で日本に渡り、第三国に逃げようとしていました。
杉原千畝は、なんとかユダヤ難民たちにビザを出してあげられないか、と本国に掛け合いました。
しかし、日本国では、ユダヤ人に限らず、全ての外国人について、避難先の入国許可を得ていない者には通過ビザを発給しない、というスタンスでした。
千畝がビザを出してあげられないまま、領事館に押し寄せるユダヤ人はどんどん増えていきました。
ここで彼らを見捨ててしまえば、彼らはナチスに強制収容所に連行され、どんな目に合わされるかわからない……。
悩んだ末に、千畝は領事の権限でビザを出すことを決定します。
外交官としては、完全に本省の意向を無視した独断独行です。
杉原夫人も、「あとで私たちはどうなるか分かりませんけど、そうしてあげて下さい」と同意します。
領事館に押しかけ、憔悴する子ども達の姿を見た時に、杉原夫人には、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という旧約聖書の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かんだそうです。
こうして杉原千畝は、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても、領事の権限でビザを発給したのです。
命のビザ
一旦ビザを発行すると決めたら、千畝の行動力はもの凄いものでした。
千畝は1か月余りの間、不眠不休で2000通以上ものビザを書き続けたといいます。
一日に大量のビザを書き続けて、万年筆が折れ、手を痛めるほどだったとか。
見かねた助手が簡略化したゴム印を作ったといいます。
また、戦争中の1940年にリトアニアの日本領事館は閉鎖されることになり、千畝も去らなくてはなりませんでした。
それでも、毎日ユダヤ人は助けを求めて来続けます。
千畝は自分に残された全ての時間をビザ発給に充て、最後は電車に乗り込むまで、サインをし続けたといいます。
杉原氏の人道支援への想いに感動を禁じ得ないですね。
当時のユダヤ人をジェノサイドから救うために、発行した通過ビザは、「命のビザ」と呼ばれています。
杉原千畝氏については、近年唐沢寿明さん主演で映画化もされており、とても勉強になりますよ。
センポ、ありがとう
ユダヤ人や現地の人たちは杉原千畝を、「センポ」の愛称で親しんでいます。(「千畝(ちうね)」と発音するのが難しかったので、センポと呼んでくれ、とご本人がユダヤ人たちに言ったとか。)
ビザを発給する事で、迫り来るナチスのリトアニア侵攻から、ユダヤ人難民の命を救った杉原千畝。
千畝の発給したビザは6,000人分。
この行動により、直接的には6,000人、累計1万人もの難民の命が救われたといいます。
ナチスに追われた6,000人ものユダヤ人を救った杉原千畝氏は、人道的な人物として今もなお、世界中で尊敬されています。
現在、千畝のビザによって救われた人たちは、その子孫を合わせると約25万人にものぼるそうです。
戦後、リトアニアでは杉原千畝を讃えて、千畝の勤めていた旧日本領事館が杉原記念館として改装され、「スギハラ通り」という道もできました。
日本国も暗黙の了解?
ちなみに、杉原千畝氏は日本本国の許可なしに独断でビザを発行した、とされていることが多いのですが。
実際には、通過ビザを持つユダヤ人のほとんどが日本行きの船への乗船・入国が認められており、当時の外務省も暗黙の了解だったのではないか、と現在では言われています。
ただ、ドイツは戦時中の同盟国だったため、大っぴらにはユダヤ人救済を公認することができず、難しい立ち位置を迫られていたのでしょう。
戦争同盟国であろうが、ジェノサイドなど人道的に間違っていると思う行為には賛同せず、非公式に助ける辺りに、日本人らしさがありそうですね。
杉原記念館
リトアニアには、旧日本領事館がそのまま、杉原記念館として残されています。
記念館には杉原千畝ゆかりの品や、発行した通過ビザが残されています。
記念館に残されているビザは一枚一枚、全てを手書きで書かれているのが確認できるそうです。
現在に至るまで、世界各国から観光客が訪問しています。
遠いリトアニアの地で活躍した日本人がいて、その人の功績を讃えた記念館に世界中の人が訪問しているなんて、とても誇らしいですね。
センポが偉大すぎて……
あまりに杉原千畝が尊すぎるので、リトアニア人の中には、「日本人だからじゃなくて、『センポ』が好きなんだ」という方もいるそうです。
そのため、リトアニアに旅行に行ったとして、「日本人です」と言った場合に、「オー!センポと同じね!」と言われるか、「センポは好きだけど、今の日本人よく知らないね!」と言われるかは五分五分のようです。笑
とにもかくにも、杉原千畝さんのお陰で、「天使のような日本人がかつてリトアニアにいた」ということだけは、リトアニアの皆さんがご存知です。
千畝さんの徳のお陰で、リトアニアと末永く仲良くお付き合いできるといいですね。
<まとめ>
いかがでしたでしょうか?
今回の記事をまとめておきましょう!
・リトアニア人の中で誰もが知っている日本人は、外交官の杉原千畝(通称:センポ)。
・千畝はビザを発給する事で、迫り来るナチスのリトアニア侵攻から、ユダヤ人難民6,000人の命を救った。
・千畝のビザは「命のビザ」と呼ばれ、国際社会からも尊敬されている。
・リトアニア人は杉原千畝を尊敬しており、新日家が多いが、たまに「日本人だからというんじゃなくて、センポが好きなんだ」という人もいる。笑
リトアニアに行った際、また、リトアニアのご友人がいる際は、「センポ」のお話が共通の話題になるといいですね。
また、「センポ以外の日本人よく知らない……」と言われるのも少し悲しいので、厳しい国際情勢の中ですが、お互い助け合う国際人が沢山生まれてくるといいな、なんて思います。
それでは今回はこの辺まで。
最後までお読み下さり、ありがとうございました!
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