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【書評】『初恋』染野太朗歌集

悲しみはひかりのやうにりをれど会いたし夏を生きるあなたに

この歌集を最初に読んでからしばらくが経った。
そう、しばらくが経ったのだが、この歌集に溢れる恋心と夏のイメージが去らない。
むしろ、光は反射し、重なり、より強くなる。
帯の表に挙げられたこの歌に、そのエッセンスは凝縮されている。
「たったひとつの(過ぎた)恋」(いや、主体の中では完全には過ぎていない)、そのワンテーマが一冊を貫く。潔い歌集だと思う。

きみがまたその人を言ふとりかへしのつかないほどのやさしい声で

一回もふりかへらざるひとの背の厚み 見えなくなるまでは見ず

夏へ向かふ電車とおもふきみでなき人に会ふために駆け込んだけれど

またきみをうたがひ胸は呼びよせる海にしづんだ無数の船を

博多駅阪急地下に泣きやまずごばう天うどん啜る春なり

会ひたさも嫉妬もやがて失はむさうして夏が輝けばいい

花を火にたとへるやうなおろかさで憎しみながくながく保てり

くるしみを求めてたんだみづたまりに雨降るかぎり死ぬ水紋の

これもきつと最後の恋ぢやないけれど海風、奪へいつさいの声

きみには恋人がゐるといふだけのことをどうしてきみもぼくも花束のやうに

いきなりものすごくたくさんの歌を引いてしまった。
別れた「きみ」への、まだやまない愛情を詠った歌を挙げると枚挙にいとまがない。
そのどれもがきみを慈しみ、愛し、もう近くにいないことを苦しむ歌だ。

一首目は、主体から気持ちの遠ざかるきみが、別の人のことを楽しげに話す場面。
「その人」は実際に新しいきみの想い人なのか、主体がそう思っているだけなのか、本当のところはわからない。
取り返しがつかないほどやさしい声は主体にとって身体が削られるほどの苦しさだろう。
二、三首目はきみを失った、その未練が滲み出ている。
去ってゆく人の背中を「見えなくなるまで見ない」。それは辛さから来るというより、意地のように思える。
きみじゃない人に会うために乗る電車に何の意味があろうか。
「夏へ向かふ電車」がきらきらと眩しく、この歌集に夏の刻印をまた一つ押す。

四首目の、きみを疑う気持ち、本当は主体は隠したいはずだ。
そういった、隠したい黒々した感情を、この歌集では読者に晒しつづける。
そこを炙りだして詠うことには勇気が必要だが、そこに読者も感情移入でき、我がことのように痛みを感じることができる。
海に沈む船のイメージが不気味で、なおかつ美しく、「胸は呼びよせる」の捻じれ方も魅力的だ。
五首目は福岡に引っ越した主体が、福岡にいてもきみを思って泣いている場面。
それでも名物のごぼう天うどんを啜る主体には、少し明るさも感じられる。
余談だが、2017年のドラマ『カルテット』で主人公の一人を演じる松たか子が
「泣きながらご飯を食べたことのある人は、生きていけます」
と言う場面がある。とても印象的なシーンであり台詞であった。
そのイメージもあって、この歌は主体の持つ苦しみが少し軽減されていく予兆の歌のように取った。
その後に挙げた歌の、少し「夏」を突き放したような言い方や、
「憎しみながくながく保てり」「くるしみを求めてたんだ」という述懐のような表現にも、それは現れているのかもしれない。

九首目、「きつと最後の恋ぢやない」と主体はつよがる。つよがって、同時に、実際またいつか恋するだろうと思っているし、そうありたいと願っている。
でもこの今は、海風に一切の声を奪ってほしいと願う。今はこの恋だけを悲しみたいし、その辛さを嘆く声をすべて奪い去ってほしい、ということだろうか。
十首目の歌は歌集の巻末の歌だ。きみにはすでに新しい恋人ができている。
「だけのことを」の部分には再び主体のつよがりが入っていると思う。
世間一般ではそうだとしても、主体にとって、きみに恋人ができたことは、まったくもって「だけのこと」ではないのだから。
そして「どうして」の後にはかなりの情報量を持った主体の感情が省略されている。
「許せないのか」とか「引きずってしまうのか」とか、そんな一言では扱いきれない感情なのだろう。
いや、もしくは「どうして」はそのまま「きみもぼくも花束のやうに」にかかって、その後が省略なのか。複雑な構造の歌だ。
きみもぼくも花束のように(別々に)束ねられているのか。
きみもぼくも花束(を手に持つ)ように、上句の事実を抱きしめているのか。
複雑な造りの歌が最後にあって、読者も思いを残したまま歌集を閉じるような気持ちになる。

ああなんでこんなに傷つけたいのだらうしじみ汁ずずずと啜りたり

嫌はれぬためだけにことば選びつつ要は性欲だらう初冬の

ぼくにあまり関心のない人と来てバスターミナルにバスを待ちをり

このくるしみをきみに同じだけ与へたいといふくるしみをこの秋もせり

ひとりひとり友だちに嫌はれていくやうなさういふ速度、日が落ちていく

罪悪感をいだかせようとすることばつてどうしてかうもうつくしいんだらう

恋の歌の中でも少し触れたが、作者は人に見せたくない感情を歌に詠みこみ、読者に差し出す。
相手を傷つけたい、苦しませたい、という誰しも感じたことのある暗い気持ち、欲望。
自分自身でも知覚するのが難しいかすかな感情を掘り下げて見つめるところに、凄味がある。
五首目の一人一人友達に嫌われる速度は、なぜだろう、想像することができる速度だ。
なぜだか体感としてわかる比喩は、きっとぴたりとはまっている比喩なのだと思う。

信号を長く待ちたり午後の陽にたつた一枚の右手翳して

のわるいシャワーに髪を流しつつしづかな今がふいに厭はし

天神に傘買ひに来て買ふ前のおづおづひらくこのあをき傘

ひかりしばらくわが踝をあたためてカーブとともに去りてしゆきぬ

ひととゐて自分ばかりを知る夜の凧をあやつるやうにくるしい

人に見せたくない感情ばかりでなく、作者は見逃しそうなかすかな気持ちの揺らめきを捉えるのが巧みだ。
二首目の、今がふいに厭わしくなる感覚、三首目の、買う前だから試しにおずおずと傘を開く動作。
言われてはじめて、ああ知っていると思うものの、自らそれを捉えて歌にするのは難しい。

文庫本二冊携へ水買へば旅がはじまる熱海への旅

赤羽とおんなじ味のハンバーグをデニーズ熱海店に食ふさへ愉し

西部ガスのさいぶがすといふ読み方のいよいよ住むといふ感じする

位置ひとつ決まらぬことも愉しくて洗面台のハンドソープの

福岡に引つ越した日のラーメンの旨さを超えるラーメンがない

歌集の中には国内を旅したり、福岡に引っ越す歌が登場する。
それは他のパートと比べてのどかで明るく、作者の陽の部分を見せてくれる。
三、四首目は福岡に引っ越してすぐのわくわくが伝わる歌だ。
「いよいよ住むといふ感じ」を感じるのは、些細なこと。
西部ガスの読み方を知り、ハンドソープを手にうろうろする主体を想像し
こちらもこれからの暮らしを楽しみに思う気持ちを共有する。
そして引っ越した日に食べたラーメン。
そう、それにはこれからを思うわくわくが溶け込んでいたのだから、
その味が再現され、上書きされることはないのだ。残念ながら。

他にも、「肺魚」をモチーフにした一連や、父親のこと、福岡での入院の一連など、様々な出来事や気持ちが詠われる。
それらについても述べたかったし、また修辞についてももっと触れたかったが、今回はこの辺りで。
それだけたくさん誰かと話したくなる歌集なのだと思う。

それでも、冒頭に述べたワンテーマが歌集を貫くイメージは変わらない。
歌集を開くと、苦しい追憶と、夏がいつもある。
                   (2023/7 書肆侃侃房)

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