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「やらなくちゃ」に追われ、「やっちゃダメ」に縛られる

しなくてはならない事に追いかけられてはいないでしょうか。

してはならない事に縛り付けられてはいないですか。

そして、失敗することをひどく怖がってはいませんか。


どんな人であっても、そういった気分に執らわれることは、ありますが、

追い立てられ、縛りつけられ、恐れるあまり、自分を見失う程の焦燥感を度々、もっと言うなら、いつも感じていて、その事に気がついたなら、

一度立ち止まってみるタイミングなのかも知れません。

こういった状態に陥っていると、当然ながら、周りがよく見えなくなります。

それが常態化しているのであれば、競走馬の様に遮眼帯を付けている状態です。

追われ、縛られ、恐れることで、視野が極端に狭くなった状態で、人生を歩んでいる、と言えます。

視野が狭く、周りが見えていないので、皆、自分と同様の焦燥感を味わいながら生きているに違いない、と思っていますが、

全く違う世界を見ている人は、沢山います。

その全く違う世界は、余程の事が無いと、自分を失う程に追い詰められた感覚にはならない世界です。

同じ街に暮らし、同じ会社に勤め、同じ仕事をしていても、

日々ひりついた焦燥感を味わう人と、
基本的に安心感に包まれる人とに、分かれます。

焦燥感を感じる人は、幼少期に否定的な扱いを日常的にされる環境で育った人、です。

自分の気持ちはさて置いて、弟や妹にいつも優しく「しなくては」ならなかったのではないでしょうか。

いつも明るく、いつも賢く、いつも元気な子供のフリを「しなくては」ならなかったのではないでしょうか。

自分の感情とは関係なく、テストで良い点数をとる為に、友達と遊んだり「してはならない」と言われなかったでしょうか。

将来役に立たないから、野球もサッカーも「してはならない」と言われ、
みっともないから、人前ではしゃいだり、ふざけたり「してはならない」と言われなかったでしょうか。

そして、テストの点数が悪いと責められなかったでしょうか。
失敗は許さない、失敗は悪いこと、失敗してはならない、という空気がいつもなかったでしょうか。

「しなくてはならない」と追い詰め、
「してはならない」と縛り付け、
失敗を責め立てたのは誰ですか。

「子供って勝手なものだから、追い立てることも、縛ることも、必要だし、そりゃ成功して欲しいから、失敗を時に責めるのも、親心ってもんだ」

そう思う人もいるでしょうし、意味もわかりますが、

忘れてはならないのが、そこに子供を尊重する姿勢が親に有るか、という事です。

親が子供を一人の人間として尊重していれば、時に踏み越えて、子供に行き過ぎた制限をかけたり、過度に追い立てることがあっても、その一回きりで子供が生きづらくなってしまう、ということではありません。

子育てに正解は無く、親は失敗します。

しかし、親の基本姿勢が子供を尊重すること、にあるならば、親子関係に流れる空気は温かです。

親子関係の素地に尊重があれば、流れる空気は温かなのです。

先に、それが親心ってもんだ、といった一文を挟みましたが、

本気で前出の一文の様に、親心、を捉えている人は、子供に曲解した、親心、を押し付けます。

子供は勝手、という決めつけ、
勝手だから、頭ごなしも致し方無し、というのは、調教、です。
成功して欲しいから失敗を責める、ということは、親の願望を叶えて欲しい、ということです。
それを、親心、として押し付けるのは、心理的虐待、と言える範疇です。

親になった時、本気で、親心、という名の下に、親の感情を押し付けてしまう人は、

自分も幼少期に親の感情を押し付けられる環境に育った人です。

そして、追われ、縛られ、恐れる人も、親の感情を引き受けざるを得なかった人です。

追うのは、親です。
縛るのも、親です。
恐れさせるのも、親、なのです。

大人になって所帯を持って、立派な大人として暮らしていても、

その人の心の真ん中には、親が居座っています。

心を親に占拠され、その人の心の中の、確かな【自分】という意識は小さく縮こまっています。
つまり、【自分】が無く、親から追われ、縛られ、責められ、焦燥感に苛まれ、

親になった時子供に、親心、を押し付けます。

そうやって、否定的な親子関係の中で育った人は、自分の子供に、親心、を押し付ける人になってしまいます。


自分がいつも焦燥感に苛まれている事に、気がついたなら、

立ち止まり、自分と向き合うタイミングです。

気がついたその時、既に、

歩むべき方向を向いています。

進めば、光りに届きます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム





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