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心理的虐待をする親はフレネミーの究極形態

近年、巷でちょくちょく耳にする様になったフレネミー(frenemy)とは、「friend」(友)と「enemy」(敵)を組み合わせた混成語で、「友を装う敵」といった意味です。
親しいフリをして陥れる人、を指します。

多くの、生きづらさ、を手放したい、と思っている人と、お話しさせて頂いた中で、私の肌感覚にはなりますが、

親から手を挙げられたことは一度も無く、受けた虐待は心理的虐待のみ、の人ほど、
生きづらさ、を手放す際には、一筋縄ではいかない、という印象を持っています。

受けた虐待が肉体的な痛みを伴う様な内容の場合は、日常的にぶたれる訳ですから、その心理的ダメージは測り知れないですが、

生きづらさを手放そうと取り組む時、初めは抑え込まれていても、自分を虐待した親に対する疑念は、気づきに近づけば近づく程に、加速度的に確信を持つに至ります。

ところが、親から手を挙げられたことは一度も無く、虐待が心理的なものに限られている場合、

そもそも、生きているだけで感じている重ったるい苦しさが、生きづらさ、というものだ、と気がつくことが難しいのです。

生まれた時から心理的虐待のみに晒された人の心境の典型例は、

「苦しくて動けなくなってしまっている自分が情け無い、あんなに愛情を注いでくれた両親に申し訳無い」

といったものです。


肉体的に痛みを伴う経験は、恐怖によって押えつける側面が強く、
ぶたれる時には、恐怖がありますが、痛みを与える親に対する、怒り、もあるのです。

勿論、ぶたれることによるダメージは破壊的ですから、それが良い、と言っているのでは無く、

恐怖によって抑え込まれた、虐待する親に対する正当な、怒り、の感情が、

生きづらさを手放す際には、生きづらさに気がつく取っ掛かりになりますし、

気づきに近づく程に、その正当な怒りが親への疑念を確信へと変えることになります。

だから、生きづらさを手放す方向に一旦走り出したら、一気に気づきまで突っ走るのは、肉体的な痛みを伴う虐待を経験した人が多い、と感じています。


一度もぶたれたことがない生きづらい人は、
苦しくて動けなくなって尚、心理的虐待を加え続けた親を、信じています。

残酷な言い方をするならば親に、騙されています。

肉体的な痛みを伴う虐待は、子供が真実に気がつくことを、恐怖によって、抑え込みますが、

心理的虐待は、騙すことによって子供が真実に気がつかない様に、仕向けます。

その親は、自分が、立派な親、と世間から褒められたくて子供を、優秀な子、に仕立て上げようと、子供の尻を叩きます。
そこに子供の適性や嗜好、事情は考慮されず、親の都合でしか無いのですが、
親は「お前のためを思って…」と言います。
騙します。

その親は、情緒が幼いため、自分が褒められ、自分が注目され、自分が一番であることを、常に求めています。

優秀であることを強いた子供が、親の要求通りに、テストで100点を取ったら、今度は嫉妬します。
「この問題はレベルが低い、良い点数を取って当たり前、こんなテストが出来て喜ぶお前が情け無い」と、くさします。

世間には優秀さを誇示しなければなりませんが、子供が優秀だと自分の無価値感が疼くので、くさします。
親は、「お前のためを思って言っている」と言います。
子供は、「こんなことで喜んだ自分が悪い」と思います。

その親は、かつて親から否定的な扱いばかりを受けて育った人です。

そんな扱いを受けて育つうちに、心は凍りつき、情緒は成長の歩みを止めてしまっています。

だから、見た目は親で、立派な大人でも、未消化の幼児的願望に衝き動かされて生きています。

子供の為、と口にしながら、子供の事を考えてあげる程の、情緒の成熟はありません。

そればかりか、子供の嬉しそう、だったり、楽しそうな様子が、癪に障ります。

「自分ばっかりズルい」とその親は思ってしまうのです。

結果、喜んだり、楽しそうな子供に冷水をかける様な事を言います。

いっぺんに笑顔を消し去る様な仕打ちをします。
「お前のため…」と言いながら。

親と子という絶対的な力の差を使って、親は子を自分の無価値感から目を逸らし、幼児的願望を叶える道具にします。

そうしながら、親は子供の事を思っている、と思い込んでいます。

その矛盾に気がつく程、心は成熟してはいない、のです。

親は、全部自分の都合、全部自分の願望、を子供に押し付けながら、

子供思いの愛情深い親だと悦に入ってさえいるのです。


閉ざされた親子関係という、

圧倒的に偏ったパワーバランスの下で、

強い立ち場の親が、子のため、と口にしながら、自分のために子を利用するのは、
親しさを装う敵、の究極形態だと思うのです。

そうでありながら、親にその自覚はありません。

無意識に、
惜しみなく与えるつもりで、
限りなく奪います。

限りなく奪う方に自覚が無い、歪んだ心理的虐待の世界で、生まれ育った人が、

生きづらさに気がつくことが難しく、

気づいて尚、自分を責め、親を信じようとする姿に触れると、

なんとも表現出来ない思いに執らわれます。

騙し絵の中に生まれたその人が、

そこから抜け出すことを願うなら、

愚直なまでに真実を探ることが必要です。

痛みを伴いますが、

苦しみを踏み越えて、

生き抜いたその人なら、

必ず真実に届きます。

親を信じる季節から、

自分を信じる季節に、

シフトする時が来たのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム


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