心のこと、は幾重にも重なり合っている
私達が、何らかのことを他者に伝えよう、とするときの主だった術は、言葉、を使うことです。
言葉は、時に伝達したり、時にわかり合ったり、
思考のピースであり、マインドを通わせるツールでもあります。
この物質世界に人として生きる限り、言葉はコミュニケーションの中心です。
それほど重要なもの、でありながら、言葉には限界もあります。
心のこと、を考えるとき、どれ程の言葉の達人であろうとも、全てを言語化し、万人に通じる表現で、伝えることには、限界がある、と思うのです。
何故なら、心のこと、は言葉に置き換えることが、最も難しい事柄だから、です。
だから、人は太古の昔から、今に至る長きに渡って、心に苦悩し続けるのだと思います。
もしも、言葉に載せること無く、考えや思いを伝える術を私達が持っていたなら、心のこと、は、もっと伝わるし、もっと分かち合えるのだと思いますが、
この物質世界に生きる限り、テレパシーが主たるコミュニケーション手段になることは考え辛いでしょう。
だから、名だたる賢人、偉人も、言葉に載せる事が困難な、心のこと、を、
手を変え品を変え、時に方便を混じえて、伝えようとした、のだと思います。
たとえば、生きづらさ、を考えるとき、
言葉にすると、生きづらさ、とは、
自分に安心感が無い状態、
自分を嫌っている状態、
自分が無い状態、
心が二つに裂けている状態、
感じることが出来ず思考が暴走している状態、
等等、まだまだ沢山の…、と言うよりも、表現は無数に有るのです。
そして、これらの表現が意味するものは、全て同じ、ということです。
生きづらさを抱える人に、
「ご自分のことが好きですか?」
と問うたとします。
最も多い答えが、
「こうならば好き、だけど、こうならば嫌い」
或いは、
「ここは好き、だけど、ここは嫌い」
といった答えです。
答えた人は、50対50、半分好きで、半分嫌い、と思っていますが、
これは、自分を嫌っています。
先に挙げた、生きづらさ、の、
自分を嫌っている状態と、
心が二つに裂けている状態の両方が当てはまります。
百歩譲って、50対50だったとしても、半分嫌いだったら嫌い、ということです。
半分も嫌っていたら、自分に対して安心感なんか持てません。
その人は多分、
「誰だって、そうなんじゃない?」
と思っているでしょうが、
心に安心感のある人は、自分を責めることが、とても少ないのです。
自分の半分を嫌っている人は、無意識に激しく自分を責めるのが常態化しています。
心の中の、確かな【自分】という意識は安心感が有ってはじめて育まれます。
こうならば好き、さもなくば嫌い、は条件付きの、好き、です。
おそらく条件付きの愛、に晒される過去があり、そこに根本原因がある様に思います。
心に安心感のある人は、無条件に受け容れられる環境で育ったからこそ、自分は存在するだけで価値が有る、という感覚が育っています。
その感覚があれば、この自分は好き、この自分は嫌い、という条件はつきません。
安心感のある人は、愛すべき価値ある自分がいて、
欠点も長所も、愛すべき自分の一部分、であり、
成功も失敗も、価値ある自分が招いた結果、なのです。
だから、自分を責めないし、嫌わないし、条件は付かないのです。
自分に条件を付ける人の、
好きだけど嫌い、したいけどしたくない、といった相反する感情が同居する心の在り様が、葛藤する、という状態であり、
心が二つに裂けた状態です。
自分を好きかどうか、といったことに限らず、
あらゆる場面で、好きか嫌いか、進むか止まるか、するかしないか、葛藤します。
心のこと、は、生きづらさ一つ取ってみても、
言葉で端的に指し示すことは、困難を極めます。
しかし、違ったことを言っている様に受け取れても、心のこと、は幾重にも重なり合っています。
重なり合っているからこそ、全部腑に落ちて、気づいたなら、
いっぺんに溶けるのです。
安心感が無いことも、
自分を嫌っていることも、
自分が無いことも、
心が二つに裂けていることも、
思考が暴走していることも、
重なり合っています。
扉は五つあったとしても、
鍵は一つ、だと思っています。
一つの鍵を見つけたら、
全ての扉は開きます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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