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自己肯定感

自己肯定感という言葉を一度も耳にしたことが無い人は、ほとんどいないのではないか、と思います。

心にまつわる書籍の中を探すまでも無く、今や日常的なおしゃべりの中にさえ、自己肯定感という単語が出て来ることが有るでしょう。

それ程、世の中に浸透した概念と言えます。

言わずもがなですが、自己肯定感とは、
「ありのままの自分でOK」という感覚です。

ネットを見れば、書店に行けば、
「自己肯定感を上げる5つの方法」
「自己肯定感を高めるための10のこと」
といった文言が踊ります。

自己肯定感という概念を否定するものでは、勿論ありません。

「ありのままの自分でOK」という感覚を高めるのは、より軽やかに生きる上で、欠くことが出来ない、と思います。


ただ、人の心は一人ひとり違ったもの、です。
人が十人いれば十通りの、百人いれば百通りの心の景色が有ります。

安易に棲み分けを設けることは、すべきでは無いと思っていますが、

こと、生きづらさを手放すことに取り組む時は、
本来ならば人の助けになる、心にまつわる考え方や概念が、
当てはまらない場合が多く有る様に思えます。

この、自己肯定感という概念も、まさしく、それなのです。

当たり前の様に耳にする程、世の中に浸透した概念で、ましてや、生きづらさに苦しんだ人は、心にまつわる情報に敏感です。

自己肯定感という概念を知らない場合は、ほぼ無いと思います。

だから、自己肯定感を上げようとします。
自己肯定感を高めようとするのです。


生きづらさを抱える人は、かつて尊重されることの無い環境で育った人です。

常に否定的な扱いを受け続けた人です。

泣きたくても、親が望めば笑って見せた人です。

自分の感情を捨てて、笑った時だけ許されて、涙をこぼしたら責められた人です。

言わば、自分を捨てることで過酷な環境を生き抜いた人なのです。

許されない自分の感情を恥じています。
そんな感情を持ってしまう自分が大嫌いです。


そうして、自分を捨てることで、生き抜いたのですから、

自己肯定感の「自己」がありません。
捨てたのですから。

肯定する自分が無いし、生まれた時から否定的にしか扱われなかった為に、肯定するという事が、言葉の理解に留まります。
肯定する感覚が実感を伴いません。

そして、捨て去ってしまって尚、自分が嫌いなのです。


自己肯定感という概念も、それを高めるという考え方も、素晴らしいと思います。

しかし、生きづらさを抱える人が、自己肯定感を高めようとしても、皮肉な事に、生きづらさを手放すことからは離れ、迷路に迷い込むことが少なく無い、と感じています。

先ずは、
嫌って嫌って固く縮こまってしまった「自己」を溶きほぐすことが必要です。

否定される事しか無かった為に、実感を伴わなくなってしまった「肯定」することを思い出す、或いは、覚える必要が有ります。

親が望む事を優先し、自分が感じることを諦めて生きた為に感じる力が鈍麻しています。
感情を呼び覚ます必要が有るのです。

望まない環境を生き抜いて、そして生きづらさを抱えてしまった人は、

「自己肯定感」の、
「自己」が無く、
「肯定」を知らず、
「感」じる力が鈍っています。


その状態で自己肯定感を尺度にして、生きづらさを手放そうとしても、叶わないと思っています。

先にも触れた様に、自己肯定感という概念を否定するつもりは全くありません。

自己が有り、肯定を実感として知っていて、感情が滑らかに動く人は、自己肯定感を尺度にして、自らの心をより豊かに軽やかな方向に導いて良いと思っています。

その尺度では測れないのが、生きづらさを手放す局面だと考えます。


生きづらさを抱える人に向けた文章で、自己肯定感を尺度にしたものも、多々見かけます。

自己が無く、肯定を知らず、感じることがままならないから、

生きづらいのだ、と思うんです。

少なくとも、生きづらさを手放す時期は、流れを変える時期であり、

人生をより豊かに、軽やかに歩む為の考え方や概念から外れることは少なく無いと感じています。


自己肯定感とは、ありのままの自分でいい、と感じる感覚です。

上げようと思う時、

「今」の自分を変えようとしています。

「今」の自分を否定しています。


今まで、散々嫌って来た自分のことを、

そのままで良くて、
嫌ったことは仕方が無くて、

根っこは単なる思い込みだった、と腑に落ちた時、

生きづらさは溶ける、と思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム


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