日本の夏2

懐かしさと物語~石井明日香『ひさかたのおと』~

 懐かしさ。ノスタルジー。懐古。そういう感じが、ぼくは好きで、懐かしさを感じさせてくれる物語に、すごく惹きつけられる。

 小さい頃、南米で育った。3歳から8歳まで。南米に渡るとき、母は日本のアニメを録画して、持っていって、向こうでぼくと兄に見せてくれていた。『カリメロ』は、ピラミッドに入って冒険に行くところ。その冒険がどうなるのか、気になって仕方なかった。ピラミッドの中で、壮大な冒険が繰り広げられるんだろうと想像した。でも、家にあったアニメは、一話のみ。日本を発つ前に放送していた回を、録画して持っていったんだから、そういうことになる。物語の続きに、憧れがふくらんだ。

 物語を、一部だけ持っていく。その発想が、ぼくにはないと思う。続きが見られないことがわかっている物語を、はじめの方だけ見せるということは、きっとしない。でも、母が物語の一部だけを見せてくれた結果、たぶん、ぼくの物語への憧れが大きくなって、物語好きになる一つの要因になったと思う。そして、当時一部だけを見た物語に、ものすごく懐かしさを感じる。

 いちばん記憶に残っていて、ぼくの懐かしさを刺激するのは、『ふしぎの海のナディア』。これも、はじめの数話のみを見た。ジャンと、ナディアの、冒険。エッフェル塔から始まる物語。ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』を下敷きにしていること、ぼくの見た部分の続きが数十話にまたがる大作であることなどを後から知って、憧れが募るばかりだった。懐かしさが、憧れが大きすぎて、見てしまうのがもったいなくて、実は未だにはじめの数話の続きが見られていない。いつ、見ようか。

 そんなこんなで、懐かしさの感覚が、ものすごく好きなんです。繊細で、大切で、切ない感じ。懐かしさに包まれる新年の雰囲気の中で、懐かしさについて、それから懐かしさを感じさせてくれる物語について、書いてみる。

*     *     *

 懐かしさは、ふたつに分けられると思う。一つは、自分が体験したことを、懐かしく思う気持ち。文字通りの、懐古。もう一つは、体験していなくても、それを、懐かしいと感じること。

 上に書いたように、ぼくは、南米で育った。3歳から南米にいると、もう、南米にいることが普通で、日本への一時帰国が非日常になる。夏の一時帰国。年越しの一時帰国。その部分の記憶が、濃い。夏に行く宮崎の祖父母の家は、ぼくの原風景の一つ。体験した懐かしさ。日本の、夏。

 子供のときに体験したものごとは、自分の底に溜まって、残り続ける。大きくなってからそれに触れると、一気に懐かしさがこみ上げる。

 でも、大人になってからも、懐かしい出来事は生まれてきて。ぼくは仕事を始めて一年と少し経ったとき、9連休の夏休みをもらった。そのときに、青春18切符を持って、東海道線に乗った。西への旅。電車に乗ってから行き先を考えて、神戸、倉敷、広島、尾道、姫路、名古屋に行った。いちばん懐かしいのは、尾道から、しまなみ海道のサイクリングロードを40キロくらい走ったことで、ロード沿いから見える夏の瀬戸内海は、びっくりするほどきれいで、青くて、日本の夏で。ぼくは、蝉の声がうるさい、日本の夏が、好きだ。

 しまなみ海道の体験、西日本の一人旅を懐古すること。それは、体験した懐かしさだ。でもぼくは、しまなみ海道で夏の海辺の風景を見たとき、そのときに、懐かしい、と思った。はじめて見る風景なのに。たぶん、これがもう一つの懐かしさ。実際に体験していないけれども、感じる懐かしさ。

 経験していないそれを、懐かしく感じることは、とても不思議で、でも、そういう体験をした人って多いんじゃないか、と思う。以前書いたThe Chieftainsについての記事では、ファンタジーに出てくるようなアイルランド・ケルトの世界観を、懐かしく感じることがあることに触れた。なんで、そういうことが起こるのか?

 奥野健男という文学研究者の本に、『文学における原風景』というのがある。人は、自分の体験に基づく原風景のほかに、民族に共通する原風景があるのだという。集団的深層意識に基づく原風景。日本の場合は、原っぱなんかに原風景を感じる人が多くて、それは、縄文文化と結びついているんじゃないか、と奥野は言う。子供の遊び場。街にぽっかりと空いた原っぱ。それは、もともと、禁忌空間、土俗信仰の祠や碑があった縄文文化の祭祀場だったものが多い、と。そういう場、原っぱに感じる、縄文を祖として持つ共同体の、深層意識としての懐かしさ。

(ちなみに、「原風景」という言葉を使い始めたのは、この奥野健男みたい。今やすっかりメディアなんかでおなじみの言葉も、70年代に奥野が言い始めたらしい。)

 奥野の考察が正しいか、妥当かは置いておいて、ファンタジックな、おもしろい話だと思う。思えば、自分が体験していないのに懐かしいと感じるものには、民俗的なもの、非現実的、超現実的、幻想的、ファンタジックな空気をまとったものも多い気がする。

 それはなぜか。きっと、子供のころは、現実とそれらを、はっきりと分けていなかったからじゃないか。七歳までは、子供は神の世界のもの。だから、七歳までの子供が神隠しに遭うことが多い。逆に、子供の頃は、どこまでが(現代の化学的な説明のもとで考えられている)現実で、どこまでが超現実的なものだったのか、はっきり認識していなかったと思う。そういう子供の頃の、現実と非現実を分けない感覚が懐かしくて、だからこそ超現実的なもの、幻想的なもの、ファンタジックなものに、懐かしさを感じる、と考えるのも、おもしろいかもしれない。

 こんなことを考えたのは、新年の懐古的な感覚と、それから、漫画『ひさかたのおと』を読んだから。

 『ひさかたのおと』は、博物館の学芸員だった巽が、3、4歳くらいまで育った離島、靑島で教師をすることになって、帰り、そこでいろいろな幻想的なものに出会う物語。触れられるものだけを信じていた、スーツに身を固めた巽は、島で美しい不思議に多くふれていき、ネクタイを外し、柔らかくなっていく。

 靑島は、日本の原風景があふれた、ファンタジックな場で。そこで起こる幻想的なことは、懐かしくて。ぼくは、島に、帰りたくなる。島出身ではないけれど。

 民俗的で、幻想的な懐かしさ。今年も、日本のいろいろなところに、行きたいと思う。とても、美しい漫画。

 まだ一巻が発売されたばかり。懐かしさが好きな人、幻想的なものが好きな人、日本の夏が好きな人には、お勧め。

 そうそう、もしも日本の夏と、瀬戸内海、しまなみ海道が好きな人がいれば、ぼくが以前書いた小説も読んでみてください。

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