教育改革は誰のため?

 ある人が言った。この教育改革は、国が今までの教育の中で育ててきた人たちに足りないものを補うための改革だ、と。
そもそも国民をそうやって「こうあるべき」「こうあって欲しい」と願うこと自体に違和感を覚えるが、その願っている「日本人像」がまたまた違和感。

 「自分で考え、表現し、判断する」人

また、そのための教育内容としては

「主体的・対話的で深い学び」

 今までは受け身で知識を得てきた日本人。その中でもほんのわずかの方々はその知識を深めて広げて研究や事業などに活かしてきたが、その他大多数は教育によって「受け身」の体質が身についてしまった。自分から行動するよりもただ決められた通りに指示に従うことが得意になってしまった、ということが少々ご不満な様子。

 私自身も今、教育改革が必要だと思う決定的な理由がある。それは正に「受け身に生きてる人の多いこと」。それも私と同じ世代。今会社を動かす側に立つ人たち。指示されないと心配。前の人がしたままをそのまま引き継ぐのが安全で安心なので、幾ら今の時代と合ってなくても驚くべき忠実さで前までの代のしてきたことをコピーペースト。それが教育の場でも行われているのが、怖くてたまらない。

 彼らが話していて気になる言葉は、「こんなはずじゃなかった」。それは自分の人生ではなく、誰かが言った通りにここまで来たら道に迷った、という印象を受ける言葉。ふと気が付いて辺りを見回すと、ここはどこ?私は誰?状態だったと言うのだ。その世代にこの新しいスタイルの教育を担わせようとしているのだから、それがまた驚きだ。
実は教育は深くて、人の心に決定的な杭を打ち込むことが可能な責任重大なものなのだということを、どれくらいの方が理解しているのだろうか。
 「人の言う通りにしておけば安心」「同じでないと弾かれる」という杭を心に打ち込まれた世代が、どうやって「主体的・対話的にものを考える」「自分で考え、表現」する人を育てる教育が出来ると思うのか。

 それが出来るのは、マインドコントロールを解かれた人たち、またそれにかからなかった人たちなのだ。だから、かつては「異端児」だと散々周りに迷惑がられ、排除された人たちに頭を下げて聞くのが一番良い。
または、本気で指導者になるためのトレーニングとして「主体的に生きること」をその人の中に染み込ませないといけない。その時には、くれぐれも「みんなやってるんだから」とか理不尽な言葉を使わないこと。考えて対話をして納得して前に進むスタイルでないとダメだ。
例えば「教育的目的で」とか「子どものために」とか言って、相手の都合や意見も聞かずに残業させるなんて言語道断。心を自由に、自分の判断をしっかり出来る方を育てるには、かなりの時間とお金がかかることは想定出来る。少なくとも今の学校という職場文化の中でそれが出来るのかは疑問なので、他に全く違う文化のある場所を作る必要があるだろう。

 私の知る人の中で、それが出来る人は自分の育った環境や社会の状況、出会った人々のことを語りながら、その決断には全て自分が関係あると言う。自分の人生に対する自分の責任をしっかり受け止めて、前を向いて歩いてきた人たちだ。人のせいにしながら、あれができなかったこれができなかったと言い続ける人生もありだと思うが、それを子どもに目指させるかどうかはそれぞれの判断。自分で決めて自分で受け止めてどんな結果もプラスに向けて歩き出せない限りは、自分の人生を幸せに歩んでいるとは言えない。

 子どもを本当に幸せにしたいと思うのであれば、受け身の人生から子どもを引っ張り出すべきだ。どんな人であれどんな仕事をするであれ、自分の状況を自分で受け入れ自分で決断して切り開いていくその危うさと幸せは表裏一体。それをきちんと手を離して見守ることができるか、それが今後変化の激しい時代に生きる子供たちを支える、私たちにできる唯一のことであると思う。
 時代の流れは早い。過去の価値観だけじゃ、役に立たない。私たちは先立つ身。子どもたちの人生に責任を取れない。自分の人生に責任を負えるのは本人だけだ。そんな気持ちで子どもたちを見守ることが出来る覚悟と寛大さ、視野の広さを持つべきなのは大人の方で、子どもたちにただそれを形だけ教えて大きな要求だけをするのは、結局教育改革でもなんでもないと思うのだ。

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