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言葉の力 習慣の力

 2022年が終わろうとしている。この一年を振り返りながら、私は今年出会った作家 寺地はるな さんの「ミナトホテルの裏庭には」を読み終えた。
この作家さんは私の愛する人が今年勧めてくれた方。今年に入ってこの方の本を4-5冊読んだ。どの本も共通して言えるのは、読後に心が凪になるということ。「それでいいんだよ」というメッセージがじわっと心に広がっていく。

習慣の根深さ

 私は比較的自由なマインドを持った人間だという自負があったけれど、実際は「自由なマインドに憧れながらも振り切れない人間」だったんだと思う。生まれ育った環境にはゆったりとした自由な雰囲気が漂っていたけれど、成長するにつれ「こうあるべき」と束ねられる環境の中でジワジワと私の中にも「こうあるべき」が浸透してきたことは否めない。
 
 無自覚な内にそのうねりに呑まれながらもがいていたけれど、それ以上に辛かったのは自分の中にある違和感。それと対峙することになったのは大人になって経験した海外生活。海外生活と呼べる程ファンシーではなく、むしろ海外放浪旅みたいな日々の中で、私の中の根っこに届こうとしていた「こうあるべき」が粉砕された。

 私の知る「こうあるべき」は自分の世界の、自分の人生の全てを支配する程大きかったはずなのに、それはこの日本の自分の周りのほんの小さな世界だけの話だったのだということに気付き、愕然としたが。
25年経った今でもハッキリと、あれは自分の価値観が生まれ変わった瞬間だったと言える。

 親元にいる数年、義務教育の数年、社会で…人の根っこに毎日毎日浴びせられるシャワーの水にどんな色が付いていても、誰も気付かない。でもその色は確実にその人の根っこを染める。習慣は人の根っこを育てる。そしてその習慣の中にはいつも言葉がある。それは時に自分にはっきり向けられる言葉であり、時に自分以外に向けられた言葉。

根が腐る言葉

 例えば親から「お前はダメなやつだ」学校で先生から「またお前か」友達や近所の人から「あいつはどうしようもない」そんな言葉を日々浴びせられたら、その子は腐る。当たり前。そんなこと誰でも知っている。ではこれはどうだろう。
 「お前ならもっと出来たはず」「もう一歩だったね」
実はこれはダイレクトに「お前はダメ」と言われるよりももっと強い毒としての根っこに届く。前者が「汚れた水、養分を含まない水」だとすると、後者は誰かによって人をコントロールするために作り替えられた「化学肥料たっぷりの水」。下手すると再起不能くらいのダメージを与える。

 わかりやすく言うと、「お前なら」「もう一歩」と優しい言葉とガッカリを伝えることでその子に「期待していたのに」という気持ちも一緒に伝わる。結局言葉としてはその子の今に関して誰も満足していない、ということを伝えるのと共に「期待を裏切ってしまった」という後ろめたい気持ちも植え付けてしまう。
 一見素敵な言葉に見えるし、親や先生の表情も笑っている。でもその化学肥料はその子の心にまで影響を及ぼす。その子の「善い部分」を破壊していく。そんなに期待してくれていたのに、それを裏切ってしまった自分。大好きな人たちをガッカリさせてしまった自分。

 きっと大人側の目的は子どもに「次は頑張るぞ!」と思わせることだろう。大人がどこからか仕入れてきた、お互い嫌な思いをせずに子どものモチベーションを上げようという知恵だろう。でも実際は笑顔のままソフトな言葉を向けて安心しているのは大人だけで、子どもにとっては大人が想像する以上の大ダメージなのだ。それを言われ続けることによって、その子が人をガッカリさせてしまった、という罪悪感は飽和量に達する可能性がある。いずれ自分自身さえも自分の味方をしてやれなくなる。

 いずれも「現状に満足していませんよ」という大人の勝手な言葉がけは、子どもにとっては根を腐らせる毒。そもそも大人の満足いく通りに生きる筋合いはひとつもない。それが親子であれ、師弟関係であれ。

 これは夫婦間などでも問題になる「モラハラ」のひとつになり得る。

言葉と習慣で癒す

 英語講師をしていると、キラーフレーズに「一度間違って覚えた単語の読み方を覚え直すには倍以上の時間がかかります」というのがある。これはある意味リアルだけど、十分脅し文句にもなり得る。
 でも残念ながら同じことがここでも当てはまる。

 大人になってから心をこじらせている人の多くが「こうあるべき」「人の期待に答えなくちゃ」に押しつぶされそうになっている。それもそのはずだろう、生まれた時からずっとその期待がどんどんその子の上に降り積もるのだから。そして決まってその周りにいたかつての大人たちは「そんな期待かけた覚え、ありません。」と言う。それはそうだろう。自分の手を汚さず子どものモチベーションを上げる、という間違った方法を無意識で使ってきたのだから。

 だから本当の意味でそれを癒すには、人の奥深くにインストールされてしまったものを時間をかけてアンインストールする必要がある。そんな中では、冒頭に紹介した寺地はるなさんの本から得られるメッセージの様な「それでいいんだよ」をじわりじわりと届ける必要がある。子どもだったら、大人が手伝うこともできるだろうが、大人は何かしらの方法で自分自身に「ありのままで良いんだよ」というメッセージを届ける必要がある。

 生きづらい人、自分のことを否定ばかりしてしまう人…自分がありのままでいられない場所や人から離れることも含めて、自分を守ることを大切にしてほしい。そして少し時間はかかるかも知れないけれど、自分がありのままでいられるサードプレイスや本、表現に触れる時間を作るのも良いのかも知れない。時間はかかるけれど。誰かの価値観に自分を乗っけずに、自分が心地よく呼吸しやすく生きていく習慣を身につけることは十分可能だ。

 2022年。もう3年続くコロナ禍で。
私たちはSNSという人を比べたり分けたりするツールの中で行ったり来たり。家庭や学校では成果主義が加速していき、心を育てる教育は破綻している。誰が勝者になるのか、そんなつまらない競争から降りて生きている人がカリスマ的な魅力を発している現実もある。

 いつの時代もマジョリティはその真ん中にいる人と、そこにしがみついて安心していたい人で構成されている。そのうねりの中から顔を出して、違う世界を見てみること、自分自身と一緒に手に手を取りそこを抜け出してみるのも面白いかも。

 私は2023年もその外から時々中を覗き込む。そこで出会える人がいたら、すれ違い様に笑い合おう。

合言葉は「それでいいんだよ」でね。
待ってる。


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