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樋口季一郎と三度の奇跡

第二次世界大戦中にナチスドイツに迫害を受けたユダヤ人に「命のビザ」を発行した杉原千畝は映画にもドラマにも、そして教科書にも載せられているので名前くらい聞いたことがある人もいるだろう。

だが、実は杉原千畝よりも早い時期に、かつ杉原千畝よりも多くのユダヤ人を救った男がいた。

彼はまた、戦況が不利の中で米軍に囲まれた島の人々の命を救い、そして終戦後はソ連軍によって侵略されていたかもしれない北海道の人々の命を救った。

そんな「三度の奇跡」を起こした男の名は樋口季一郎。
大日本帝国陸軍中将であった。

1888年に淡路島で生まれた樋口は1909年、陸軍士官学校(今の防衛大学校)へ入学。

指揮官を養成するこの学校を優秀な成績で卒業した後は部隊勤務を経て陸軍大学校(今の幹部養成学校)へ入学。

陸大を卒業後に樋口がついた部隊は満州やソ連の特務機関であった。

特務機関は表向きは各国の要人や軍人と情報交換をしつつ、裏任務として諜報活動もおこなう重要な部署。

海外の貴族や高級軍人などの教養があり家柄のいい人たちと交流が必要であったが、日本人としては長身で、かつ社交場では必須科目のダンスのセンスもあった樋口は人気者になった。

だがやはり当時は欧米で「黄禍論」と呼ばれる黄色人種への差別がまかり通っていた時代。

樋口も嫌な思いをたくさんした。

時には「黄色人種には部屋を貸したくない」と部屋が借りられない時もあった。

その時に樋口に家を提供したり食事を振る舞ったのは、当時欧米で同じく差別されていたユダヤ人だった。

樋口とユダヤ人の絆はここから始まった。

さて、時が進んで1937年。

ユダヤ人であり医師のカウフマン博士から「ユダヤ人のための会を開きたい。ゼネラル樋口も参加してほしい」と依頼される。

しかし、当時日本はナチスドイツと接近しており、樋口の上官はドイツとの同盟に前向きな東條英機であり、東條英機が指揮する関東軍はみな親ドイツ派ばかりであった。

それでも樋口はユダヤ人への恩義を感じており、かつナチスによるユダヤ人迫害に憤りを感じていたので部下の安江大佐とともに出席した。

この時は軽く注意されて済んだようだった。

しかしこの翌年、ナチスのユダヤ人迫害が本格化した時にある事件が起きる。

逃げ延びてきた大量のユダヤ人がシベリア鉄道の駅で立ち往生しているとの報告が入る。

この時もカウフマン博士からのSOSを受けた樋口は迷うことなく満州鉄道総裁だった松岡洋右に頼み込み、特別列車を手配。

後年、樋口ルートと呼ばれるこのルートで実に3万人ものユダヤ人がナチスから逃げ延びることができた。

しかし、同盟国の日本がこんなことをしてナチスが黙っているわけがない。

リッペンドロップ外相が直々に関東軍参謀・東條英機に対して厳重な抗議が入った。

東條は樋口を呼び付けて報告を促す。

樋口は堂々と「ヒットラーのお先棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と反論して、いかにこの行動が正しかったかを説明した。

東條は遮ることなく最後まで話を聞いて「よく分かった」と言って彼を部屋から退出させた。
そしてそれ以上のお咎めもなかった。

そしてそのまま何度も何度も抗議の文面を送りつけるナチスドイツのリッペンドロップ外相に対しても「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と跳ねつけた。

余談だが、戦後今も「侵略戦争を起こした元凶」と言われる東條英機だが、樋口は東條に対して「東條さんは筋を通せば話を聞いてくれる人だった」と語っている。

これは「オトポール事件」と呼ばれ、今でもユダヤ系の人達の中で語り継がれている。
日本ではまったく語られないが。

こうして一度目の奇跡を起こした樋口。

二度目の奇跡はそれから5年以上経った1943年であった。

当時はアメリカやイギリスなどの連合国と大東亜戦争に突入していた日本。

戦況が悪化しつつある中、アリューシャン列島のアッツ島で日本軍が初めての玉砕をおこなう。

要するに圧倒的兵力差を前に「降伏するなら死を選ぶ」と教えられてきた日本軍が最期におこなう、いわゆるバンザイ突撃である。

そしてアッツ島のすぐ隣のキスカ島にも米軍が迫っており、制海権を失いつつあった日本には増援や物資を送る余裕もなかった。

絶対絶滅、現地の軍に残された道は自決するか玉砕するかの最悪な状況の中、またも樋口が動く。

当時英米よりも敵対していた陸海軍。
(味方同士でそんなことしてるから負けたという意見もあるが長くなるので割愛します…)

そんな海軍に頭を下げて船を出してもらい、自分自身が先頭に立ってキスカ島の守備隊を全員無傷で帰還させた。

これは「キスカ島撤退作戦」と呼ばれる、奇跡の撤退作戦であった。

この時樋口は下士官たちに「重くなって速度が落ちるから銃器は海に捨てよ」と命じた。

しかし、天皇の印である菊の御紋がついた銃は「陛下から戴いたもの。即ち陛下の一部である」と教え込まれていた当時、この行為は軍法会議ものだった。

当然、丸腰で帰還した兵隊を見て陸軍次官の富永恭次は「畏れ多くも陛下から頂いた銃を捨てるとは何事だ」と激怒。

しかし、樋口が「私が命令した」というと冨永はすごすご引き下がった。
典型的な精神主義の軍人で、かつ横柄な人物あった冨永だが、相手が陸軍士官学校の先輩である樋口ではさすがにそれ以上言えなかったのだろう。

かくして二度目の奇跡も見事に成し遂げた樋口。

だが、この時のちに彼自身の命と国家国民の命を賭けた大勝負があるとは思わなかったであろう。

さらに時代が進んだ1945年8月15日。

皆さんご存知のとおり、この日昭和天皇がラジオで終戦の御詔勅をお読みになり、3年8ヶ月の戦争は終わった。

樋口はこの時北海道に拠点を置く第五方面軍司令官であり、南樺太や千島列島を担当地域に持っていたので現地の部隊への武装解除や日本への帰還準備に奔走していた。

しかし同年8月18日、そんな樋口のもとに「ソ連軍が戦闘継続中で、占守島に迫りつつあり」との報告が入る。

既に日本は無条件降伏をしているにも関わらずである。

ソ連の狙いは少しでも日本領土を占領し、あわよくば北海道や東北の南部まで支配下に置くことであった。

要するに朝鮮半島や東西ドイツのように日本を分断統治して、戦後共産主義陣営を増やすことが目的だった。

今に至るまで露助のやることは卑怯で狡猾で残忍である。ロクなもんじゃない。おっといけない多様性の時代だった。ここはオフレコで。

というのはさておき、樋口は国の存亡をかけた重大な決断を迫られた。

もう日本国自体が無条件降伏をしており、本来ならば抵抗せずソ連軍に島を明け渡せと命令すべきなのかもしれない。

もしかすると抗戦すれば現地軍、とりわけそこの指揮官は戦争犯罪とされるかもしれない。

だが、占守島には多くの一般市民が残っている。

また、樋口は特務機関時代のネットワークでソ連が北海道や東北も狙っていることを知っていた。

そしてソ連軍が満州でおこなった関東軍残存兵への虐殺行為、国際法違反である捕虜の強制連行、そして一般市民への虐殺、女性に至っては強姦や陵辱の数々も耳に入っていただろう。

まさに究極の決断を迫られた。

そしてついに樋口は答えを出した。

占守島戦車第十一連隊、通称士魂部隊が受けた命令は、「断固反撃に転じ、上陸部隊を殲滅せよ」

士魂部隊の面々は残った戦車をかき集め、戦車隊の神様と言われ部下からも慕われていた指揮官池田末男の「諸子は赤穂浪士のように恥を忍び後世に仇を報ずるか、白虎隊となって民族の防波堤となるか」という鼓舞を受けて大量の数と圧倒的火力を持って上陸してきたソ連軍を迎え撃った。

そして池田大佐含めほとんどの兵士が戦死しながらも必死に抵抗して、ついにソ連軍を海へ追い落とした。

こうして占守島は守られ、さらには北海道や東北がソ連の領土になることは免れた。

ちなみにこの時北方領土までは不法占拠が出来たことで、ソ連崩壊後のロシアとなった今でも連中は「北方領土はロシア領」と居座り続けている。

話を戻すと、この占守島奪取失敗に激怒したのがソ連のトップ・独裁者スターリンだった。

なにせ、自らの野望を打ち砕かれたのである。

その怒りは樋口に向けられた。

アメリカを中心として日本の戦争犯罪人を裁く極東国際軍事裁判が開かれた時、スターリンは再三樋口の戦犯指名を強く要請した。

恐らく「無条件降伏以降に我が軍に対して攻撃を仕掛けた」的なこじつけを名目にしたのだろう。

だが、GHQ総司令官マッカーサーは樋口の戦犯指名を跳ね除けた。

マッカーサーに働きかけたのはアメリカ国防総省だったが、実は国防総省を動かしたのはニューヨークに本部を置く「世界ユダヤ人協会」であった。

世界ユダヤ人協会の面々は戦後、ソ連のスターリンによって樋口が戦犯指定されるかもしれないと情報を掴んだ。

そして「今こそゼネラル樋口の恩に報いる時だ」と必死のロビー活動を展開した。

今でもアメリカやヨーロッパでナチスをほんの一言でも賞賛すると軽蔑の目で見られるのは世界ユダヤ人協会の影響であるが、「ナチスの迫害から解放された悲劇の民族」というイメージのあった第二次大戦直後のこの時代は特に影響力が大きかった。

この世界ユダヤ人協会の幹部には、カウフマン博士含めオトポールで樋口に命を救われたユダヤ人達がいた。

彼らの必死な活動もあって、無事に樋口の戦犯指定は回避された。

それから30年近く、宮崎県で細々と暮らした樋口は1970年に82歳でこの世を去った。

ユダヤ人の聖地と言われるイスラエルの首都エルサレム。

この地に、ユダヤ人のために功績を残した人を記した「ゴールデンブック」と呼ばれる書物がある。

そこにはアインシュタインなどと並び、かなり上の方に「ゼネラル樋口」の名前がある。
そしてその下には樋口とともにユダヤ人迫害に反対して、講演にも参加した安江大佐の名前も。

樋口は晩年よく「我々は負け戦や悲惨な戦いばかりを振り返っているが、勝ち戦のことも学ばなければいけない」と語っていた。

今の教科書にも杉原千畝のことはたくさん出てくるのに樋口季一郎の名前はいっさい出てこない。

それは彼が軍人であり、そして満州事変や支那事変を引き起こした陸軍の軍人だからだろうか。

昨今、多様性が叫ばれ差別反対を主張する人が増えた。

しかし、そんな人に限って、例えば世界で最初に人種差別撤廃を訴えたのが日本だということも語らなければ樋口季一郎がオトポールで3万人ものユダヤ人を救い、上官の東條英機が「当然なる人道上の配慮」とナチスを跳ね除けたことを一切言わない。

何が多様性で何が差別反対なのだ。

口先の偽善で本当の言葉の意味を理解していないからそんなことができる。

だが、これを読んだ多くの人は是非とも樋口季一郎についてもっと知ってほしい。

樋口に関するこの記事を書くにあたって影響を受けたYouTuberさんが2人ほどいて、その方の動画がわかりやすいので貼らせて頂きます。

まず最初は「学校では教えてくれない」というYouTuberさんで、他の動画も非常に分かりやすいです。
そもそもこの動画を観て最初に樋口季一郎について書こうと思い経ちました。

次に「Hiromi Koyanagi」さんです。
彼女はアーティストさんで、「あなたのキスを数えましょう」で有名な小柳ゆきさんの妹さんです。
(20代以下の人はピンとこないかもしれませんが…)

日本近現代史にも造詣が深く、樋口季一郎以外にも神風特別攻撃隊の若者達と、彼らを支え続けた食堂のお母さんの物語である、石原慎太郎さん原作の映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」についても語っています。

ちなみにこの映画は窪塚洋介さんや徳重聡さん、中村倫也さん、向井理さんなんかが出演されています。
向井理さんはこの映画をきっかけとして以降毎年靖国神社に参拝しているそうです。
しかし、なぜかそのことを書いたブログが事務所によって強制的に削除されたそうです。これは触れたら色々とダメそう…

かなり長いですが、「俺は、君のためにこそ死ににいく」のリンクも貼っておきます。


https://m.youtube.com/watch?v=KAEuAgCWCK0

では今回はこの辺で。


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