親による子の連れ去りにおける洗脳–ジャスミン

  約2ヶ月前にバングラデシュで出会った、12歳女の子が書いたエッセイをここで共有したいと思います。12歳とは思えないような内容と秀逸な表現です。

 日本人とバングラデシュ系アメリカ人のハーフであり、日本で生まれ育った彼女は2年前(2021年)、学校帰りのスクールバスから突然お父さんに連れ去られ、バングラデシュへとやって来ました。
そして、彼女と彼女を追いかけて後からやって来た日本人のお母さん(親権者)は、今もバングラデシュからの出国と日本への帰国が許されていません。
以下は、親による連れ去りと洗脳を経験した彼女の体験を綴ったエッセイ(の日本語版)です。

複雑な内容ですが、これを少しでも多くの人に見てもらい、知っていただけると幸いです。

親による子の連れ去りにおける洗脳
–ジャスミン


イントロダクション
 
「洗脳」は、オックスフォードの言語辞典の中で「計画的かつ、強制的な手段を用いて、個人が本来持っているものと根本的に異なる信念を受け入れるよう圧力をかける過程」と説明されています。科学的な用語ではなく、この言葉を使うことは極端すぎるように聞こえるかもしれませんが、洗脳は実際に存在するのです。
そして、洗脳は心理的虐待の一種と考えることができます。その症状は、カルト教団のメンバーや戦争犯罪者によく見られますが、親による子の連れ去りなど、平然と行われる犯罪の中にも洗脳が隠されていることがあります。
 
 私は、この国際的な親による子の連れ去りと洗脳のサバイバーとして、実の父親が当時あのバス停で、私が気づかないうちに私の知っている全てを盗んでしまった後、その苦しみに耐えるといった呪いに誰もかかってはならないと信じ、これを書いています。
 
 
背景
 
私は、東京で日本人である母とバングラデシュにルーツのあるアメリカ人である父との間に生まれました。生まれてからずっと日本で過ごし、地元の保育園に通い、小学生になるとアメリカンスクールに通うことになりました。妹が2人いて、彼女たちも東京で育ち、私と同じ学校に通っていました。拉致されるまでの私の人生は、ごく平凡なものだったと言えます。
 
父は仕事で海外にいることが多く、母は日本ではトップの医療機関といわれる聖路加国際病院の腫瘍内科の副医長として働いていました。そのため、私たちの面倒はほとんど母が見ていました。
休みの日には田舎にある母の実家に連れて行ってもらい、私たち姉妹は都会から離れた場所で遊ぶこともできました。母は忙しい人でしたが、できる限り時間をとって私たちと一緒に過ごし、いろいろなところに連れていってくれました。
一方、当時の父は明らかに怒りっぽい性格で、よく母を意味もなく怒鳴りつけるようになりました。その事情を学校も認識し、時に私たちの気持ちを打ち明けられるカウンセラーを付けてくれました。
 
しかし、そんな両親のたまにある喧嘩がある日、全てを変えてしまいました。
 
その喧嘩は2020年の12月頃に起こり、私は両親の声の調子から、それが今までのものと何かが違うと感じていました。いつもより激しいこの喧嘩が二人の仲を今まで以上に悪くしたのかもしれませんが、10歳の私にはその内容がよく理解できませんでした。そしてその数日後から、父は私を彼の部屋に呼び、鍵をかけ、逃亡の準備を始めました。
 
お察しの通り、母は仕事上で責任ある立場にいるため忙しい人でした。当時、夕方の6時か7時ごろまでは家にいませんでした。
一方父は出張の時以外は何もすることがなかったため、ほとんどの時間家にいました。そこで、母が不在にしている、私と妹たちだけで過ごす午後の時間を有効に利用しました。あの喧嘩の数日後から、毎日私を部屋に呼び、母とその家族についての残酷な嘘を私に吹き込んだのです。
 
父は私に、母からお金と時間を搾取されたと言い、最近母の家族が東京にいる私たちを訪ねてきたのは、父のお金をもっと奪うためであり、慈悲を請う彼の訴えを聞き入れなかったと主張しました。とりわけ父は、私の母を「恐ろしい人」(彼の言葉だと)だと言いました。これが、父による洗脳と引き離しのプロセスの始まりでした。
 
私は生まれつき素朴な性格であり、それでいて社会意識が高い、オタクっぽい子供です。父はそれをよく知っており、子供である私の至らない点を利用し、今まで想像もつかなかったような母に対する憎しみを私に抱かせました。父の思い通りになったのです。
 
もう2年も前のことなので、この時の彼との会話の詳細を全て覚えている訳ではありません。
ただ、今話した事がだいたいの会話の内容でした。その後、私の心が少しずつ、そして確実に母から離れていくのを感じた父は、私と一緒にアメリカへ行く計画を話し始めました。妹たちは、私が東京で聞いた話を一切聞かされていませんでした。
 
2021年1月のある日、母が離婚を申し出ました。それに慌てた父は、私に「逃げるのは明日だ
」と言い、荷造りを済ませ、私にもそうするように言ってきたのです。その時点で、私の心は母から完全に引き離されていました。私は何も考えずに父の言うことに同意しました。
 
翌日、父は学校からの帰り道、バスに乗っていた私に電話をかけ、「いつも降りるバス停の手前で降りなさい」と言い、用意したタクシーに乗るように指示しました。当然のことながら、当時9歳と6歳だった妹もついて来ました。しかし、父は6歳の末っ子がタクシーに乗ることを許しませんでした。こうして、私と父と当時9歳の妹は、父が借りていたアパートに行き、そこで寝泊まりするようになりました。
 
その日が、家と呼べる場所にあるベッドで眠った最後の日でした。
 
母は、私たちが突然いなくなったことに、明らかに気が動転していました。そして私たちを連れ戻すため、東京家庭裁判所で親権者を決める手続きを始めました。私たちが父の用意したアパートにいる間、裁判所は私たちの生活について何度も調査を行い、公正な判断のための証拠を集めてくれました。
 
しかし1ヵ月後、父が「出国する」と言い出しました。父は、母が保管していた私と妹の日本のパスポートを「間違って捨ててしまった」という嘘の理由で再発行していました。私たちはアメリカに行くと聞かされていましたが、フライト当日に初めて「直接アメリカには行けない。だけど近いうちに行く」と告げられました。そして父はUAE経由でバングラデシュへ行くと言いました。
バングラデシュ、UAEのいずれも1980年に制定されたハーグ条約(親などによって連れ去られ、国境を超えた子供を常居所がある国に速やかに戻すことを定めた、米国などが批准した条約)に加盟していない国でした。
 
父はバングラデシュ家庭裁判所に私と妹の親権と接近禁止の申し立てを行い、母が立ち会うことなく(おそらく賄賂によって)それは承認されました。
一方母は様々な努力により、すぐに私たちがバングラデシュにいることを突き止め、2021年7月に現地に到着しました。
 
そしてバングラデシュの高等法院に人身保護請求を申請し、日本大使館を通じて内務大臣がバングラデシュ警察の情報・捜査専門部門である犯罪捜査部(CID)に、私たちの捜索を命じました。その結果私たちは午後10時ごろに発見され、午前2時ごろに母のもとに連れてこられました。
 
CIDの事務所で母に再会した時、私は母に対する純粋な怒りと憎しみでいっぱいでした。何故なら、父は母がバングラデシュに到着するまでの数ヶ月の間に、私たちが彼女とその家族について否定的に捉えるよう、彼らについての偽りの情報を与え続けていたからです。
 
父は、母は彼女の両親からひどいことをされてきた。だから母も悪い人になってしまった。母はひどい子供時代を過ごしたから、今のような「めちゃくちゃな」人間になったのだと言っていました。
 
さて、母と再会した場面に戻ります。母が到着する少し前、母を待っている間に私たちは父から、
母が現れたら彼女を怒鳴りつけ、意地悪な言葉を叫び、できれば身体的に傷つけるようにと言われました。そして私は言われた通りにしました。不思議なことに、その夜のことはあまり覚えていません。母によると、私は母を指差しながら「嘘つき!」と叫んだそうです。
 
私はオウムのように、父に洗脳された通りに、同じ言葉を繰り返し続けました。母と彼女の家族は、父のお金と時間とエネルギーを盗んだ。父は日本では檻の中の動物だった。そして、母がバングラデシュにいる唯一の理由は、復讐のためだと。

 
洗脳されていた際の私の体験談

 
前の項目では、このような親による洗脳という犯罪の詳細を明らかにするため、事件発生までの過程を時系列で書いてみました。この記録の目的は、私の洗脳体験の全てをできるだけ詳細に記述し、伝えることです。
 
先ほど述べた通り、父からの母に関する嘘の情報(母は父から「お金を盗んだ」など)は、私の中に染み付いてしまいました。そのため、私は父の言うことを全て聞くようになりました。
バングラデシュで父は私たちが夜中までテレビを見たり、ゲームをしたりすること(母が絶対に許さないこと)を普段から許可していましたが、これも今思えば私や妹の幼い良心を操るための手段だったのだと思います。
 
もし私たちが父の指示に従わなければ、父はまるでおもちゃを取り上げられた子供のように悲しそうな顔をして、私たちの罪悪感を煽りました。
そのようなネガティブな感情を植え付けられた私は、まるでおもちゃの人形のように父に翻弄されました。私は操り人形に過ぎず、父は私たちが心を持っているという事実を気にすることなく、その糸を引いていました。
 
そして、私は無心になりました。トランス状態のような疎外感により、恐怖は感じられず、まるで私の論理的思考回路が完全に停止してしまったかのようでした。
大好きな実の母親に向かって罵声を浴びせるような、どんなに不条理な指示に対しても、一度も疑問を持つことはありませんでした。
 
もう一つ不思議なのは、父に誘拐された後、それまでの人生の記憶が突然、鮮明でなくなったことです。思い出すのに一苦労する欠落したような部分や、以前のように鮮明に思い出せない記憶もあります。また、短期記憶も同じような影響を受けています。
しかし、父が私に植え付けた思想の中にいつも、何か心の重荷のようなものがある気がしていました。それが何であるかは分かりませんでしたが、それは常にそこにありました。
 
母は、私たちの洗脳を解こうと、世界的に著名な心理学者や法律家の論文の内容を何度も私たちに説明したり、米司法省が発表した「家族による子の連れ去りという犯罪」という研究論文のPDFをプリントアウトして見せてくれたりしました。
しかし、当時の私と妹は一度も母の言葉を真に受けたことはありませんでした。私たちはまだ、父が正しい、母こそが私たちを「洗脳」しようとしているのだと信じきっていたのです。父が言う通り、私は母がある日突然やって来て何時間もする説明を、迷惑で「口汚いもの」としか思っていませんでした。
 
そして洗脳されてしばらく経ち、私は母が私を困らせるためにしていると思っていた、洗脳を解くための説明を見て見ぬふりをすることをやめました。それは、私が母が言うような状態でないことを分からせ、私に母の話を聞くように求めることを止めさせるためでした。ところが、実際に母の話を聞けば聞くほど、霧が晴れてきました。私の父は私を誘拐したのです。
 
私が父の行動にようやく疑問を持ち始めたのは、母がその場にいなかったのにも関わらず、私と父のする会話や父の行動を完璧に描写して言い当てた時でした。まるで、壁に耳が生えているようでした。
母は、ハーバード大教授のハワード・ガードナー氏の元で研究を行なっていた心理学者である、リチャード・A・ウォーシャック氏の『離婚毒: 片親疎外という児童虐待』という本を読んでくれた事がありました。ウォーシャック博士は、親による子の連れ去りという犯罪が、被害者である子供や残されたもう片方の親に与える影響を研究する分野での先駆者として著名な人物です。
 
『離婚毒』には、連れ去った側の親が被害者である子供の「友達」のようにふるまうのは、その子供を自分側に置き、気付かれないように洗脳を続けようとするためだとはっきり書かれています。
連れ去った親は、幼い被害者の子供らしい欲求、例えば、時間通りに早く寝たくない、夕食では好きなものだけ食べたいと言うような欲求を利用することもあるとも書かれています。
そして、残されたもう片方の親がそのようなことをしないように「強要」するたびに、「虐待をしている」のだと被害者である子どもに話します。
また、連れ去った親は、被害者である子どもに対して、発見された時は残されたもう片方の親を攻撃するように勧めます。
誘拐が起こると、連れ去った親は被害者である子供と残されたもう片方の親が通常の会話をすることができなくなるまで、双方が接触できないように仕向けます。これらの記述は、まさに私の父が行なっていることそのものでした。
 
それから数ヶ月の不安は、おそらく私の人生で最も暗い時間でした。父の言葉の正当性を疑い始めたため、先ほど述べたような心の疑惑の影が、その存在をより明確にしていたのです。
私は常に被害妄想にさいなまれ、嘘をついていないという決定的な証拠がない限り、誰も信用することができませんでした。何も気にする気になれない日もあれば、気にしすぎて疑心暗鬼の影が濃くなる日もありました。
 
しかし、何事もそうですが、このような日々は永遠に続きませんでした。去年(2022年)の12月23日に母が私たちと一緒に出国しようとして失敗した後、私はようやく、私が実はとても簡単なことに頭を悩ませ、どれだけ時間を無駄にしたかに気づいたのです。
答えはずっとそこにあったのですが、先ほど説明したような妄想が私を盲目状態にしていたため、それを確信することができなかっただけなのです。父はずっと間違っていたということを。
ただ、私はまだ誰もがもう一度やり直すチャンスを持っていると信じていたので、それを認めたくなかっただけですが、父はもうすでに何十回ものチャンスを逃していたのです。
 
12月23日は、妹が父に空港から連れ去られた日でもありました。
妹は私のように疑心暗鬼になっていたわけではなく、まだ洗脳されてはいましたが、母と口をきかないほどではありませんでした。父は妹のそばに常にいたわけでは無いので、彼女に(iPadを使い)オンラインでメールをさせたり、テレビゲームをさせたりすることでしか、彼女を支配することしかできませんでした。
そして、妹が父に連れ去られた12月23日から1カ月ほど経ってようやく、私は彼女に再会しました。妹はまるで別人のように変わっていました。
 
妹はいつも明るく、それでいて少し抜けているところがある子でした。父に似て楽しいことが大好きで、厳格なルールや命令されることを嫌いました。そして、せっかちで冒険好きでもありました。お気に入りのテレビゲームの話をするのが大好きで、私たちは長い時間その話題で盛り上がったこともありました。
ところが、父に連れ去られてから約1カ月ぶりに会った彼女は、憔悴し、睡眠不足状態のように見えました。父の弁護士でさえ「病んでいるように見える」と言うほどでした。
 
父に耳元で囁かれる指示には全て従い、私や母の呼びかけには応じませんでした。どうしてそんなに無口になってしまったのかと尋ねると、「あなたと話したくないから」と、私の知っている妹なら決して口にしないような攻撃的な口調で答えが返って来ました。まるで私たちの間に見えない壁があるようでした。
妹のように明るい人が1ヶ月で正反対の性格になるなんて、バカバカしいと思うかもしれませんが、「洗脳」はこのような不自然な行動や思考を誘導すると言うことです。
 

結論

 
この一節の主な目的は、親による子の連れ去りの最も困難な問題の一つである「洗脳」にもっと気づいてもらうことです。
この犯罪における洗脳は、被害者を加害者側に引き止めておくことはもちろんですが、加害者が被害者の人生に留まり続けるために行われます。
だからこそ、この問題が裁判においてだけでなく、地域社会でも取り上げられ、認知されることが重要だと思います。私自身が親による連れ去りの被害者であるため言えることです。
 
特に、1980年のハーグ条約に加盟していない国に住む人々に共通する固定観念として、「親が自分の子供を誘拐する(親が自分自身の子供を連れて行くことが誘拐になる)なんてことは絶対にあり得ない」というものがあります。
 
しかし、実際はその逆で、親による誘拐は「加害者」がまさに「被害者の親」であるからこそ、重大な犯罪なのです。
 普通の誘拐ならば、見知らぬ人にどこかへ連れ去られるわけですから、誰からみても犯罪と認識することができ、当局もすぐに行動を起こすことができます。そして、誘拐犯が被害者を洗脳することも難しいのです。
一方親による誘拐では、誘拐犯が被害者を簡単に洗脳することができ、これを当局が犯罪と認定することが困難な場合があるため、被害者の子供だけでなく、取り残された片方の親もさらに大きな打撃を受けることになります。
 
私は、この犯罪に関して、ぜひ世界中の皆さんに知っていただきたいと思います。また、親による子の連れ去りの危険性を十分に理解することも重要だと思います。
実の母親や父親によって、多くの子どもたちが家から連れ去られ、人生を永遠に奪われるかもしれないのです。
そして親による子の連れ去りはあまりにも軽視されているため、被害者は黙って苦しむことが多いのです。
 
親による子の連れ去りは、親が自身の子供に対して行うもっとも残酷な行為であり、それを人々がもっと認識することこそ、今この世界にいる多くの子供たちのためになると思うのです。
 
お読みいただきありがとうございました。
 
 
2023年2月6日(ジャスミン12歳)
 

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