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『文盲』生き抜くために綴る外国語

『文盲』は、世界的ベストセラー小説『悪童日記』の著者でハンガリー人作家のアゴタ・クリストフの自伝。母国語ではなく、亡命先で学ばざるを得なかったフランス語で執筆していることで知られています。

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アゴタ・クリストフは21歳のとき祖国のハンガリーからスイスへ亡命し、難民として暮らすこととなります。スイスへ逃れついた時、フランス語は彼女にとって未知の言語でした。彼女は成人してからフランス語を学び、フランス語で書き、そして『悪童日記』はフランスの出版社から出版され、ベストセラー作家となるのです。

昔フランス語の先生から、「文章が簡潔だし文法も単語も難しくないから読みやすくて勉強になるよ」と言われたことをふと思い出し、原書を買って来ました。フランス語で文章を読むことを楽しめず苦手なのですが、« L'analphabète »は読み終えることができました。フランス語を習っている方にはぜひ原文で読んでみてほしい一冊です。


大人になってから学んだ外国語で文学を書す。しかも自分で選んだ言語ではなく、難民として半ば強制的に学ばざるを得なかった言語で。これがどれほど難しく、忍耐を要し、時に歯痒いものか。フランス語を学ぶものとして、作者への畏敬の念を憶えます。


国境を越えるため、生後4ヶ月の娘を抱えて歩き続ける夜。家族にも親しい友人にも一切別れを告げることもできず後にする故郷。驚くほど波瀾万丈の人生が、しかし全く劇的に書かれず、さらりと語られます。短く簡潔な文章に平易な語彙。淡々と綴られる文章に、千の言葉を重ねて悲痛さを訴えられるよりも想像力を喚起させられます。


僅か70P足らずの短いエッセイなので仏文を読むのが苦手でも最後まで読み切れ達成感を得られるでしょう。また作者の人生を通して書くということ、言語について改めて考えさせられます。


ある一節、仏語が母国語をtuer"殺す"という、それまでの章にはなかった、突然現れる暴力的で直接的な単語に思わず目が止まります。全編を通して一度だけ使われる殺すというたったひとつの単語に、筆者の人生と言葉への執着と愛憎を感じるのです。

占領と動乱の時代、筆者の周りではたくさんの人が亡くなったことでしょう。しかし他の章ではtuerという単語は使われません。

自殺した友人たちについても、se suicider"自殺する"という直接的な表現ではなく、se donner la morteというやや婉曲的な表現がとられます。

しかし言葉は言葉を殺します。言葉の喪失、"敵語"に侵食される母国語、言葉が奪われる暴力的な痛み。


作者の経験とは全く比べられませんが、たった6年フランスに住んでいるだけで、時折とっさに適切な日本語が出てこなくなる時があります。手で文字を書いている時に漢字が曖昧になります。日本語を忘れてしまう不安、そして自分の確かだったアイデンティティが我が手からすり抜けていくような揺らぎを感じることがあります。それでいてフランス語では満足にコミュニケーションを取れる訳ではなし、読む楽しみも書く楽しみもフランス語では十分に味わえず不自由を強いられます。このままでは、どの言語でも自分を思うように表現できなくなるのではないか。言葉が自分を形づくっているという実感があるからこそ襲う、底から崩れていくような頼りなさ。


それでもアゴタ・クリストフは言葉を積み上げていきます。たとえ多くなくても、確かに握りしめている実感を伴った僅かな言葉を。祖国から離れた地で、身につけることを強いられた言葉を。スイスへ渡った当初、母国語で詩を書いていましたが、のちに小説はフランス語で書いています。フランス語で書いたからこそ得られた彼女独自の文体があるのでしょう。しかしそれだけでなく、もしもフランス語で書いていなかったら、ここまで世界で読まれる小説になっていたでしょうか。動乱の故郷を追われてさらに外国語で文章を書く、書かなければならなかった、その心境を今一度慮ります。


最後の章、作家になるにはという問いの答えは、「書き続けること」。もちろんそうです。ただ彼女の人生の数章を読んだあとに言われる、書き続けること、その重み。国境を超え、言葉の壁を超え、工場で働きながら、子どもを育てながら、文盲という砂漠を踏みしめるながら、書き続ける。


フランス語を学んでいる人だけでなく、言葉を綴りながら世界と自分を理解し生きる全ての方へ、おすすめの一冊です。外国語で書く場合だけでなく、母国語で書く際にも、平易で確実な言葉を用い簡潔で短い文を重ねる表現には学ぶところがあるでしょう。いつか日本語版も読んでみたいです。


« L’analphabète »を読み終え、『悪童日記』もフランス語で読んでみようと早速 « Le grand cahier » を買ってきました。恥ずかしながら今までフランス語で読み通した本は両手で数えられるほどしかありません。日本語で文章を読むと文字の方からこちらへ飛び込んできてくれて、目の前に浮かぶ情景を自然と楽しめるのですが、フランス語ではただただ字面を追っているだけに感じてしまうのです。でも« L’analphabète »を読んで初めてフランス語で文章を読む楽しみに少しだけ触れることができました。



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