社会のきまり【木村敏「異常の構造」書評】
戦後、日本における精神医学界の筆頭といえば、中井久夫と木村敏ではなかろうか。先日中井久夫さんが亡くなり、なんと木村敏さんがその一年前に亡くなっていたことを知った。
10年ほど前になるだろうか、はじめて読んだ統合失調症に関する学術書の著者が木村敏だった。少し昔に書かれたもので「分裂病」という言い方をしていた。
数年ぶりに木村敏を読んだ。彼の、世界を見る目がわたしは好きだ。それは精神医学にとどまらず、ものごとや社会構造の核心を突いているときがある。
本書「異常の構造」は異常及び正常を多視点から捉え、その上で著者の専門、" 精神の異常" にフォーカスし、症例解説を展開する一冊である。
魅力的な冒頭の一文。続けてこうある。
つまり、社会が「正常すぎる」ために異常を求めているのではないか、と著者は問う。
「異常」は、"常識" 及び"規則性" からの逸脱であるとしたうえで、そこに根本的な"不安" を伴うのが「精神の異常」つまり、"狂気" ではないか、と彼は説く。
本書中盤からは、この"常識の欠落" が主症状とされる統合失調症にフォーカスし、症例解説が展開される。
個人的に興味深かったのは統合失調症の発症と、家族との関係である。
つまり患者の多くは、幼少期から"常識を逸脱した" 環境に身をおいており、そのため家族も本人の発症に気づかないと著者は言う。木村敏の場合は"つねであり" とほとんど言い切るような形で綴っている。
わたし自身R.D.レインを愛読しているが、その著書「狂気と家族」や「引き裂かれた自己」においても似た家族原因説が展開されている。
ただこの領域における臨床試験の実施が困難であることは容易に想像できる。家族たちにとって、どれほどデリケートな問題であろうか。論文は多くない。
本書で紹介されていた症例のなかでも、ドイツの精神科医ブランケンブルクの患者アンネは "常識からの逸脱" と "家族原因説" の両方を患者本人が明確に表現している。原文(ドイツ語)で読めないところが悔やまれるが、たとえばこうである。
これを読んでわたしはドキっとした。
アンネの言葉が、完全に理解できるのだ。
時は20年以上前。保育園の先生が、わたしに合わせて遅く走ったので呆れたが「先生より早くて嬉しい」顔をした。
小学校のときにプレゼントをもらって、なんにも感じなかったけど嬉しい顔をした。
卒業式。なんにも感じなかったけど、感動しているみたいな顔をした。
わたしは仙台出身なのだが震災のあと、とくになんにも感じなかった。けど、外にいるときは悲しいみたいな表情で歩いた。
これが、アンネのいう"きまり" ではないかとわたしは思う。
だけどもここで、すべてが分からなくなる。わたしは異常だろうか。それとも正常なのだろうか。
わたしは、アンネと同じことを思いながら生きてきた。何かが足りない、何かがおかしいと。子供らしい感情を持っているふりをし、みんなが喜ぶところでも、泣くところでなんにも感じない。それは異常だと。何かが、足りないからこういうことが起こるのだと。けれど外では、"きまり" に沿った顔をして生きてきた。
わたしは疑問でならない。みんなはそのきまりを、きまりと認識し、それに合わせた表情を作っているのだろうか。それとも、そんなこと考えたこともなく本当に喜んだり感動したりしているのだろうか。もしそうだとしたらわたしは周りの人間とは全く違う世界を生きてきたことになる。
アンネの育った家庭については、簡単に言うと機能不全家族だったようである。機能不全家族と統合失調症の因果関係については、最近の研究でかなりの関係性が分かってきている。治療のなかで、家族が自分たちの問題を受け入れ、向き合うか、頑固として受け入れないかに患者の未来が託されている。
アンネの場合、発作から約3年間にわたり懸命な治療が行われたが、一番大切な治療が行われなかった。
そうか、ここでも結局、愛なのか。しかもそれは、言葉や行動で表現しなくてはならない。
恐ろしいことである。
【参照】
木村敏「異常の構造」講談社学術文庫
Wolfgang Blankenburg "Der Verlust der natürlichen Selbstverständlichkeit (: ein Beitrag zur Psychopathologie symptomarmer Schizophrenien] " 『自然な自明性の喪失 Ferdinand Enke Verlag, Stuttgart 1971 〔W・ブランケ ンブルク 『自明性の喪失分裂病の現象学』 木村敏・岡本進・島弘嗣訳、みすず書房
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