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おにごっこの記憶


おにごっこの記憶

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「おにごっこ」をしているのは……

私の職場にはたくさんの子供たちがいる。お昼時や夕刻、遠くからひっきりなしに聞こえるにぎやかな声。遊んでいる子供たちから少し距離をおいて眺めていると、懐かしいのに不思議と現実感のない、奇妙な感覚に包まれる。

私はこのひとときが好きだ。

あるとき、子供たちが追いかけっこをしていた。時間に余裕があればいつもしているように、私は遠くからそれを眺めていた。ぼんやりとしながら、おにごっこだ、と思った。子供たちの声は騒がしいのに幾重にも折り重なるようにして響き渡り、何を言っているのかさっぱり聞き取れない。うわんうわんと頭を揺らし、心を散らしていく。

おにごっこ。おにごっこ。

おにごっこ。おにごっこ。

反芻しているうちに、なんだかとても奇妙な言葉に思われてきた。おにごっこは「鬼ごっこ」である。ではおにごっこをしているのは誰なのか。「ごっこ遊び」をあるものに扮する遊びだと考えたとき、「おにごっこ」において「鬼ごっこ」をしているのは、オニ、つまり追いかける役の一人だけだ。あとの子供は、おそらく「人ごっこ」をしているのだろう。

そう考えるとおにごっこは寂しい。あんなにたくさん子供が集まっていて、たった一人だけがオニで、常に誰かを追いかけ続けるなんて。

急に不安な気持ちになった。子供たちの声が一層遠ざかった気がした。


「寂しいはずないじゃない。あんなに騒ぎ立ててるのに。」最初にこの話をしたのは職場の給湯室だ。同僚からはけんもほろろに切り捨てられた。この限りではない、おにごっこの寂しさを人に語ると、いつも怪訝そうな顔をされてしまう。子供たちがひっきりなしに騒いで、走りまわって、寂しさなんて感じる余地のない遊びではないかと反論されるのが常だ。「だけど、ずっと手を伸ばしているのに、誰にも届かないなんて。だれもが、その手から遠ざかっていくなんて。」

「それはおまえ、自分がオニの時だけだろう。足の速い子がオニだったら寂しさなんて感じる暇もなくオニは交代するもんだ。」同じ話をしたとき、父は笑いながらこう切り返してきた。私は本当に足が遅い。そのため父は、幼い頃のおにごっこの思い出から私が卑屈になっていると思ったようだ。「オニがほかの子を捕まえないことにはおにごっこの楽しみがない。」たしかに昔、私がオニになるとおにごっこの流れは止まってしまっていた。そんなときは子供心にも寂しさや劣等感を感じていた。だから反論しにくくはあるのだが、私はこのとき「オニとなった子供」の寂しさについて言いたかったのではない。どんなにおにごっこの流れが続こうとも、何回交代しようとも、誰がオニになろうとも、オニは寂しいのだ。オニ役の子供は、ほかの子に触れて交代できるけれど、今度は別の子がオニになって、周囲の子を追わなくてはならない。当然、ほかの子は逃げる。オニは手を伸ばす。結局、いくらオニが交代しても、オニが伸ばした手は誰にも届かない。

オニの孤独は永遠だ。

そこにいたら、の不安

幼い頃、家の中に苦手な場所があった。そこに行くのが怖いのではなく、そこに目を向けるのが怖い場所。階段ではいつも、できるだけ何も考えないようにしながら駆け下りていた。怖いものを思い出さないように。うっかり顔を上げないように。目をつぶったりもしないように。

階段を下りようとすると、目の前に薄暗い物置が見える。物置といっても、ちょうど階段から下りるとき真向かいに位置する壁に廊下をつけ、手すりのようなものをつけただけの、よくいえば屋内へとせり出したバルコニー状のスペース。なんということはない、使われなくなったおもちゃやら読まれなくなった本やらが積み重ねられているだけのがらくた置き場である。しかし、宙にあるほの暗い空間を私は心底恐れていた。今振り返ると奇妙なものだが、当時はそこにイザナミの顔が浮かんでくるのではないかと思っていたのだ。日本神話に登場するイザナギとイザナミの、あのイナザミである。

イザナミは幼少期に私が最も怯えていた「おばけ」の一つだった。小さい頃から本の虫で毎日のように一人ページを繰っていた私は、ある日読み物雑誌にあったイザナミの姿を見て凍りついた。雑誌といっても低年齢層を対象としたもので、その内容は絵本に近い。見開きいっぱいに一枚の絵が描かれ、その上に字が並んでいる。くだんのページは、とにかく黒かった。黒い背景に、黒い髪を振り乱した大きなイザナミの顔が浮かんでいる。文章までは覚えていないが、その顔の下に小さな人々が苦しみもだえる姿があったから、たぶんあれはイザナミが最後に呪いの言葉を吐く場面だったのだろう。ゆがんだ女性の顔は、私の心に大きな恐怖を残していった。そこの暗がりにいたらどうしよう。でも、恐怖に目をつぶるともっと真っ暗になる。黒い世界を見ると、あの顔を思い出してしまう。子供にとっては深刻な問題である。台所にいる母が下りてくるようにと声をかけるたび、私は一瞬緊張し、「見ないし目も閉じない」と心をつくってから足早に食事のもとへと向かっていた。

国造り神話-太古のおにごっこ-

その家の近くに「よもつひらさか」があることを知ったのはずいぶん後になってからだ。人や神の生きる中つ国と死者のいる黄泉の国の間に位置するという、あの境界。帰省のため車で国道を走っていると、いつも視界の端に「黄泉の国入り口」が映る。もう少し先へ進めばよもつひらさか。その先に古代人は死者の世界を見たらしい。そして語り継いだのだ。哀しく恐ろしい国造りの神話を。

先日実家から戻る途中に「黄泉の国入り口」を示す四角い柱を見た。ちょうど日が落ちる前で、日中に見るとむしろ拍子抜けするような素っ気ない柱が、灰色の空気の中、妙な雰囲気をまとっていた。そのためだろうか。しばらくして、ふと、成長してからその詳細を知った国造りの神話と幼い頃の思い出とが混ざり合うようにして心に浮かんできた。

この国を作ったとされる男神イザナギと女神イザナミは二人でたくさんの神々を生み出した。しかし、火の神を生み出したときに火傷を負ったイザナミは、そのまま黄泉の国へと姿を隠してしまう。彼女を追って死人の世界へやってきたイザナギ。その思いに心を打たれた女神は、彼らがかつてともに暮らした世界へ戻ることができるかどうか伺いを立てるために暗い御殿へと入っていった。夫へ決して覗くなというタブーを言い残して。

「見るな」のタブーは残酷だ。

干渉するな、関わるな。人が周囲と親しくありたいと思い、知りたいと願う限り、このタブーを犯さずにいることは難しくなる。「見るな」というなら、覗けない工夫をすればいいのに、なぜかこの手の話はいとも簡単に足を踏み入れることのできる脆弱な境界しか与えてくれず、残された者はいつも欲求に負けてしまう。男もまた、耐えきれずに暗がりへと踏み込んでしまった。そして腐乱しウジにまみれて横たわる、変わり果てた妻の姿を目の当たりにしたのだった。

 あまりのことにイザナギはその場から立ち去ろうとする。逃げ帰ろうとする。禁忌を犯した夫をイザナミは捕らえようとした。鬼女に追わせ、雷神に追わせ、ついには自身が追ってきた。

人の姿をしたイザナギは、ただただ走って逃げた。
異形となったイザナミは、ただただ追いかけた。

太古のおにごっこだ。


彼女は何を求めて夫を追ったのだろうか。

子供雑誌で初めて出会ったこのストーリー。幼かった私は、イザナミが禁忌を破った夫に罰を与えるためやってきたのだと思っていた。だからこそイザナミに強い恐怖を抱いた。あまりにその印象が強すぎたためか、絵本で読んだ国造り神話は、イナザミのページ以外、絵を思い出すことはできないほどである。

しかし、大人になった今は、イザナミがむしろ不憫に思われてならない。きっと彼女はひととき、イザナギとともにもう一度生きることを夢見て心を弾ませていたはずだ。そして夫と約束を交わし、いそいそと洞窟の奥へ歩んでいったはずなのだ。裏切られ、その夢の全てを打ち砕かれたイザナミは、夫を追いかけた。

もしも、その手が夫に届いていたら、彼女はどうしたのだろう。イザナギを切り裂こうとしたのだろうか。それとも、死人の地でイザナギと暮らそうとしたのだろうか。いずれにせよ、その終着点は黄泉の国。イザナミは夫を引き留めたいという純粋な願いに突き動かされて走ったようにみえる。

ご存じのように伸ばされた手は宙をかくばかり、夫へ届くことはなかった。イザナギの運んだ大岩によって、二人は永遠に分かたれてしまう。嘆きの中で、彼女は一日に千人の人間を縊(くび)り殺すと言った。夫の周囲に、悲しみを、怒りを、絶望を生み出すと誓った。心の痛みを言葉に託し、呪いに替えなくては、辛すぎたのだろう。

しかし、それでも彼女は、イザナギを縊(くび)りたいとは言わなかった。

胸を灼く苦しみを抱えながらも、夫を心から憎むことは出来なかったイザナミ。ここにこのストーリーの哀しさがある。

オニの孤独は、永遠だ。

おにごっこは終着点のみえない遊びだ。その影では、孤独が誰かに乗り移りながら、いつまでも残留している。

「とどるってなに。」大学に通うため上京してから、とどる、は方言らしいと知った。「濃い砂糖水を作ってる最中とか、飲み物にガムシロップ入れた直後とか、液の底で糸みたいにもやもやどろどろしているイメージの言葉なんだけど。」液体の底でどんろりと半透明な線がもやを描いている状態。私の田舎ではそれを「とどる」といった。「溶けきってないってことなの。」友人の解釈に、その場では同意したものの、あとから思い返せばやはり「とどる」イコール「溶けきっていない」という等式には釈然としないものが残る。あの重くて行き場のない、美しくてまがまがしい、上にたちのぼるようでいて下へ向かうような、無秩序な渦。ただ溶けていないのではなく、溶けなかったものが渦巻いているのだ。「とどる」は「とどる」でしかないのである。

オニの孤独に思いをはせたとき、この言葉が最もふさわしい気がした。行き場のない寂しさは、薄まることも、溶け込むこともできず、ただそこに、とどっている。

懸命に伸ばされたイザナミの手は、憎くて愛しい人を捕まえることが出来なかった。彼女は怒りも孤独も呪いの言葉さえも、自分を裏切った張本人、イザナキそのひとに向けることは出来なかった。

もしかして、この哀れな女神の思いは、おにごっこのオニとなってまだとどっているのではなかろうか。人と人の間を行き来しながら、本当に触れたい相手には届くことなく、渦を作ってはまた手を伸ばす。

子供たちは毎日のように追いかけっこをしている。私もそれを眺めるのが習慣となってしまった。しかし、あの日、薄暗がりの黄泉の国入り口と、その後ろに広がる灰がかった濃緑を見、イザナミに思いをはせて以来、子供の喧噪を耳にするとふと思い出してしまうのだ。太古から引き継がれた、哀しい物語を。そして、無邪気な遊びの中に孤独な挿話を描いてしまうのである。

作品に寄せて

2009年に書いたものの再掲です。「見るな」のタブーは残酷だ、これは、私のなかにずっとある思いです。どうして、彼らは分かたれなければならなかったのか。この「彼ら」って、神話のなかにも、昔話のなかにも、本当にたくさんいるんですよね。古人たちが語り継いだ、こうした物語をすかした先には、何が見えるのでしょうか。

学校の日常を描いたエッセイも書いています。
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定期的に沸き起こる席替えコール、学食バイキングでの温かい交流、総体出場メンバー選抜前のギスギス感。センター試験前にフェリー欠航の危機!?緊急事態宣言、そのとき島根では……?誰もが懐かしめる学生時代の思い出も、島根ならではエピソードも詰まった一冊です。


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