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あなたと一緒なら

 頭が禿げる夢を見た。夢占いで調べてみると、体力の低下、ストレスの蓄積に注意と書いてあった。気がかりを確かにふたつ抱えている。ひとつは、父の持っている借家が漏水している件。もうひとつは、父の転院の件だ。
 

 父が入院して、実家が無人になった。そこで私は、借家に住んでいる方へ「何かあったら私の携帯にかけて欲しい」と連絡をしていた。古くて小さな借家だ。管理会社と契約してもない。ある日電話があり、玄関の前が水浸しと言われた。行ってみると、敷地内の道から滲み出る水。一番近くの水道工事の会社に電話をかけ、見てもらった。でも、すぐに道路を掘り返せるはずもなく、色々な説明を受けて、後日来てもらうことになった。
 説明によると、漏水の場所は個人の敷地内である。水道管の経年劣化による破損だろう。うまくいっても、〇〇万、悪ければ手に汗握るその金額。しかし、支払いは実家の貯金からだ。残額を頭に思い浮かべて、とりあえずセーフ。

 10日ぶりに実家行き、通帳などを取りに上がった。湿気てどんよりした空気が鼻腔を刺激する。たまらず雨戸と窓を開け、掃除機をかける。所々カビが生えており、ベッドを捲ると小型のカミキリムシみたいな虫が顔を出した!何故10日でこんな事に!毎週1日は掃除に来ないと、とんでもない事になるんだ。私独りで管理しないといけないのね、実家も借家も…。
 床のカビを拭き、虫が何匹も着いたベッドのシーツをゴミ袋に入れた。毛布は洗濯して室内に干した。額や、手にはめたビニール手袋の中から、汗が滴り落ちた。除湿をオンにして、9時間タイマーをかけて実家を後にした。



 皮下埋め込み型留置カテーテルの手術をした父は、家へ戻れず、施設へも入居できず、療養病院への転院を打診された。早速受け入れてくれる病院が見つかり、医師とソーシャルワーカーとの面談をする事となった。処暑の今日、午前10時のバスに乗った。車窓に頬杖をつき、流れゆく街並みを眺めていた。

 その病院のある街は、私がまだ独身の頃開発された地域で、新築の一軒家が建ち並ぶ美しい場所だった。ちょっとした高級住宅街。あれから30年、少しセピアに見える家並みも、まだシャンとしたマダムのように色香があった。いや、私の記憶に埋もれた恋の破片が、そう見せたのかもしれない。
 
 まだ、車を走らせていた若い頃、夜景を見に何度かこの街に立ち寄った。隣には、免許を持たない同級生の彼が座っていた事もあった。年下の男の子の、ワインレッド色のMARKⅡの助手席に乗っていた時もあった。カセットから流れる音楽は『真夏の果実』。そうだった、この場所にはキュンとした思い出があったんだ。もう、詳しく思い出せない、淡い記憶。

 これからは、父の入院先の街として、何度も訪れることになるだろう。行っても面会はでき無いけれど、ただ、訪れたという記憶がまたこの街と私を繋いでくれるのだ。街角にある週3日しか開いてない喫茶店、ちょっと錆びれたスーパーマーケット。なだらかな坂の下に遠く見える住宅街。坂の上を仰ぎ見れば迫り来る深緑の山々。薄い瓦に覆われた、モダンな家の庭先に揺れるペチュニア。
 
 面談してみると、その病院の担当医師は優しかった。窓の外に留まっている黄緑色のバッタを見て「こういう生き物も生態系の一つでね、昆虫も菌も人類も、皆んななくちゃいかんのだよ。ウイルスだって、神様が作ったものの一つなんだ」と言って、ちょっと舌を出して笑った。医師としてはそれを言ってはお終いだ、と分かっている苦笑いだ。ふと、『共存』という言葉が浮かんで消えた。


 午後から水道業者の方が、見積書と請負契約書を持って家に来た。詳しい説明の途中、携帯が鳴った。父の入院先の病院から、退院の日が決まったとの連絡だった。
 同時進行にも程がある。慣れない出来事を同時に処理できる程、器用では無い。しかも、どちらも私しか関与できない事柄なのだ。あぁ、ひとりっこの責任は重い。
 昔、子どもの学童と、部活と、自治会の役員が被った事を思い出した。あの時も仕事の合間を縫って、あたふたどうにかやってきた。しかし、子どもが手を離れた後に、また忙しい日々が始まるなんて思いもしなかった。
 
 でも、ちょっと待って。今思えば、あの頃は輝いていたんだ。役割のプレッシャーから逃げずに、とりあえず、出来る事だけはやってきた(上出来だとは言わないけれど)。それが自信にもなったし、思い出にもなった。今父や母のお世話をできる範囲で(無理しない範囲で)する事は、自分にとっても良いのかもしれない。自分がやりたい事、自分の役割を果たす事、それぞれのバランスをとって楽しめば良いんだ。まだ、自分で出来る事があるって、幸せな事だから。
 

 『あなたと一緒なら心がやわらぐ』

 ペチュニアの花言葉を唱えながら、淹れたてのコーヒーにミルクをたっぷり入れて飲み干した。








 
 






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