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なんでもない日常を主(ぬし)にしてみる。

仕事場の世間話で、思った話。

仕事に対する向き合い方。その考え方は、紙一重。考え方が変わっても、変わる現実は、ほんの少し。自分の中でどれだけ感覚が180度変わろうが、日常はいつもと同じように過ぎていく。

私はマサさんと話す。
まささんは、パンをこねている。
粉から酵母まで、その人の信じたままの、美しいパンが発酵され、コネ上がって、型に入っていく。
まささんは言う。これは別に自分がやってるわけではない。
おいしいパンを作る。自分がやった仕事は、パンの配合を考えることだけ。パンはパンの菌に任せて発酵してでできあがる。

自分はなにもしていない。


少し前に、合気柔術の教室で体得した教え。
生きるとは、掴みどころがなく、空をつかむようなもの。
そういうことか、、。

少し前、ある人から暴言を受けたとき、その人の気をそらすように、話題をほかに持って行ってくれた人がいた。その暴言は、あまりにも私の心に刺さるものだったから、その人にご恩を感じて、私を助けてくれたんだねって言った時、何のこと?ってかえされたことを思い出した。
泣いた。
すごい人は、自分が助けたことさえ自覚していない。だた、存在していただけで、その場を調節し、誰かを教え、また誰かを救った。
私は、誰かの何かのためになりたい。誰かの救いになれば。と思って生きてきただけあって、その在り方はわたしを溶かした。別に頑張って誰かのためになることはないんだ。そうか。そうやってがんばって、逆に自分の人生が虐げられると、その、ほんの少しの気持ちがチリが積もって、やがては形になる。それらが、自分の望む形であるかどうか?を考えたときに、そうではない。と思った。であるのならば、金輪際は、一切、誰かをかわいそう、だなんて思うことはないだろう。かわいそう、でなく、いとおしいのだ。そして、もう、誰かを救ったことにこだわらなくていいし、救ったことも言わなくていい。

ただ、私は話す。
いろんな話をすることで、空気がほのかに明るくなれば。
又、そしてもちろん、ならなくてもいい。

ほんの少しの確かさを求めて、誰かを救うという行為を選択してきたけど、それを諦めた。
その上で、
ただ、目の前のことに真摯になる。
それ以上に必要なことなんてあるだろうか。

私は歩く。着実に。
自分が生きるということを、あらゆる方面から一致させる。
こんなことが仕事になるのかと思ってきたことに、本気で向き合って、
何かをやらかしてみようじゃないか。

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