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私の心に生じる理不尽な怒り

 私は強く苦しんでいた時期がありました。大学職員に勤めていた時です。
 人と円滑なコミュニケーションが取れず、仕事も他の人よりできず、「私は生きていてはいけないのではないか」という劣等感に囚われていました。
 この私の苦しみが他の人も味わうような苦しみなのか、他の人よりも強い苦しみなのか、私には判断できません。私は自分の人生しか生きてきたことが無く、他の人の人生を生きたことが無いからです。
 苦しみが一番強い時期は、最悪の手段を取ろうとしました。しかし、結局その手段は取りませんでした。いざその場に立つと怖くなったのです。「死にたくない」という思いが強く出てきました。なので未遂ですらありません。

 しかしそのままではどうにも生きるのが辛いので、何とかしようとあがきました。
 心療内科に行き、抗うつ薬を処方してもらい、カウンセリングを週に3回受けました。鬱には歩くのが良いと聞いたので、毎日寝る前に2時間ほど歩き、休みの日は5,6時間歩きました。それで、何か月か経過して、ようやく最悪の状況から復帰しました。
 改めて振り返るとかなりの荒療治だったと思います。ちょっと間違えたらもっと悪い方向に転んでいた可能性もありました。
 とにかく、危機を脱した私は、その後何年もかかって紆余曲折を経て、仕事を辞めてスカトー寺に行き、集中して仏道修行をした結果、かなりの程度苦しみを減らすことができました。それで私としてはこの件について一段落ついたと思っていました。


 さて、私はそのような経験があるからか、同じような苦しみを抱えている人の話にとても心が惹かれるところがあります。
 最近はネットを探せば、私と同じように社会で適応することに困難を抱え、苦しんでいる人の文章や話はたくさん見つけられます。苦しんでいる最中の人のそうした話を見かけたときにはなるべく好意的な反応を返そうとしていました。

 ネットでそんな話をたくさん見聞きする中で、最近ふと気づいたことがありました。
 私がそうした文章を読んだり話を聴く中で、ある特定の方々に対してのみ、私は非常にどす黒い感情を抱くことがあるのです。
 その特定の方々とは、「かつて苦しんだけど、たまたま善き人(友人、恋人、伴侶、家族など)に助けられ、救われて今は元気」というような方々です。
 そういう方々の文章を読んだり話を聴く時、私の中に非常にどす黒い感情が湧いていました。

 その感情の名前は「憎しみ」です。その中には「妬み」「恨み」も混ざっていました。

 なぜそういう方々の話を聴いて、私が「憎しみ」「妬み」「恨み」の感情を抱くのでしょうか。よくよく観察してみると、その感情とともに私の心では非常に大きな叫びがこだましていました。


「俺の時は誰も助けてくれなかった!!!」


 私は先述のように、誰かに劇的に救われたのではなく、心療内科に行ったり自分で調べた鬱に効くとされる方法を試して何とか危機を脱しました。もちろん、カウンセラーの方とか、職場の方々とかの助けは確かにあったのですが、危機的な心の状態を上向きにする努力は自分でやるしかありませんでした。「誰も助けてくれないから自分で助かる手段を見つけるしかない」という心境でもありました。
 なので、「最悪な状況だった自分に献身的に寄り添ってくれた人がいたから救われた」という話を聴くと「俺の時にはいなかったのに何でこの人にはいるんだ!」という妬みの心が生じてしまうのだと思います。
 そしてその妬みの心の裏には「助けてほしかった」という望みがあり、そしてその望みが叶えられなかったため「俺の時は誰も助けてくれなかったのに」という恨み(逆恨み)も生じるのでしょう。

 私が一番苦しんでいた時期はもう10年以上前です。そして今は、その時の苦しみはある程度自分の中で決着がついたので、当時の苦しみを思い出すことは普段ありません。そのため、私としては苦しんでいた当時のことはもう「終わったこと」だと思っていました。
 しかし私と同じような苦しみを味わってきて、善き人とのめぐり逢いで救われた人を見聞きすると、今も非常に強烈な黒い感情が湧いています。私はそのことに驚きました。「終わったこと」だと思っていたものが、私の中では全然「終わっていなかった」のでした。

 そして私の中で生じる黒い感情をさらに観察すると、憎しみや妬み、恨みのほかにも自分自身に対する自己否定の気持ちも混ざっていることにも気づきました。私の中にある自己否定の心は「私は『普通』になれない駄目な人間だ」というものです。

 何度か別の記事でも言及しましたが、私の前職は大学の事務職員です。私の所属していた大学は国立大学だったので、その大学の事務職員の身分は半分公務員です(正確には「準公務員」だった)。公務員の仕事は私の中で「ザ・普通」とでもいうべき仕事でした。
 私は大学生になったころから、集団行動ができない、集団に馴染めない自分を自覚し始め、その自分に劣等感を感じていました。その当時の劣等感を言語化すると「普通になれない」と言うことに対する劣等感です。
 そして、私の中で「ザ・普通」の仕事である、半公務員である大学職員の仕事も私は「普通に」こなすことはできていませんでした。最終的には大学職員も辞めてしまい、私には「私は普通になれない駄目な人間だ」という自己否定の心が強く刻まれました。
 その後仏道修行などのさまざまな経験を経て、普通でないことへの自己否定の心は薄まり、普段は「普通じゃなくていいじゃん」くらいの気持ちにまでなれたと思っていました。しかし、上記のように私に中に生じるどす黒い感情をよくよく観察すると、自己否定の心も混ざっていることから、私が自己否定の心と完全に決着を付けられていないことが分かりました。
 
 私と同じように社会に適応できず苦しんでいる人は、私のカテゴライズでいうところの「普通でないことに苦しむ人」です。だからこそ私はその人たちの苦しみに共感します。
 しかし、その人たちが善き人たちにその「普通でなさ」を受け入れられて救われる姿を見ると、非常に強い怒りが湧いてしまうのです。「なんでお前は赦されてるんだよ。俺は俺の「普通でなさ」を赦せていないのに、なんでお前は誰かに赦されてるんだ」と。
 私が私自身を「普通でない駄目な奴だ」と否定しているので、その否定(怒り)の心を私と同じ(だと私が一方的に思っている)人たちに向けてしまうのです。「俺が普通でないから駄目なのと同じように、お前も普通でないから駄目なんだ。苦しめよ」と。

 
 改めて言語化するとものすごく理不尽なことを思っていますね、私は(笑)。
 言うまでもないと思いますが、苦しみの中にいた方々で善き人に出会われて救われた方々は、それはとても良いことです。祝福すべきことです。
 今までの文章でその方々を責めるような心について書いていますが、現実的にそういう方々を責めるつもりは全くありません。私の心に生じている感情と向き合い、なるべく正直に言語化したいと思い、文章にしました。
 ですが、もし私の文章で傷つかれた方がいらっしゃいましたら謝罪いたします。その場合の責任は私にあります。


 ところで、私は自分の心に向き合う最も優れた方法は仏教の瞑想実践だと思っています。
 私が黒い感情に気付いて、その感情を眺めて言語化して今回の記事にしましたが、より直接的にその黒い感情に向き合うには瞑想が適していると思っています。そして、この黒い感情にきちんと向き合うことができたなら、この黒い感情は解消されるのではないか、という直感があります。
 私は最近、深く瞑想実践を修された方に縁ができたことでもありますので、ここいらでより瞑想に割く時間を増やして、この黒い感情と向き合いたいと思いました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!



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