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モダーンズ 1922

 1922年、人々が『失われた時を求めて』の作家プルーストの死に去りゆく旧時代の黄昏を思い浮かべて涙しているパリの路地を、僕らは重荷がようやく取れたような不思議な解放感を味わいながら歩いていた。プルーストと共に去った旧時代。暑い雲が去った空は星空が綺麗だ。

 パリは今外国人で溢れている。成功を夢見てそれぞれの国からやってきた連中。ロシアバレエ団、ニジンスキー、ストラヴィンスキー、ピカソ、ダリ、モディリアーニ。別に画家や音楽家ばかりじゃない。文学者だっている。ほら、あのあの『ユリシーズ』を発売したばかりのジェイムズ・ジョイスが今日もただ酒を飲んでやがる。そのジョイスの元にエズラ・パウンドが筋骨逞しい若者を連れてやってくる。たしかその若造ってアーネスト・ヘミングウェイって新聞記者だったか。

 その狂騒の中に僕らも飛び込もうとしていた。モダニズムはデラシネ達が作り上げるものだ。僕らもまた日本を捨てたデラシネだ。僕らのなした事はやがてマンレイによる見事なモノクロのフィルムとなり、それは伝説という名のレリーフに飾られるだろう。僕はこんな事を熱に浮かされ頭で明日香に語り、明日香は悪戯っぽく笑いながら聞いていた。そして僕が話を止めると彼女は言った。

「そうね、三郎さん。あなたも私もパリに来て二年になるわよね。もう雌伏の時は終わったわ。そろそろ行動に移さなくちゃ」

 自己紹介が遅れたが僕は名前は襟来三郎という。日本では作曲家をしていたが、日本の楽壇のあまりの遅れぶりに失望してパリに来た。彼女の名前は日下明日香。彼女もやはり日本の画壇の遅れぶりに失望してパリに来た。僕らは別々に活動し互いのことを全く知らなかったが、日本人会でたまたま会ったのをきっかけに付き合うようになった。とはいえ男女の関係ではない。共にモダニズムに導かれた同士の芸術家の付き合いだった。だが僕はその関係から先に進みたかった。

「そう行動に移さなくちゃいけない。それは互いの芸術だけでなく、互いの関係についてもだ。僕は君と先に進みたいんだよ。二人でこのモダニズムの時代を生きたいんだ。僕は未来のエリック・サティとなり、君は未来のマリー・ローランサンになるだろう。だから……」

「サティ?ストラヴィンスキーでもシェーンベルグでもなくて?」

 さすが彼女は音楽についても詳しい。たしかに現在のモダニズム音楽を代表するのはこの両巨頭だ。だが僕はその二人よりもサティの方に未来を感じる。サティのその驚嘆すべき単純さは不変の現代だ。新しさという名のギリシャ彫刻だ。そしてサティにはストラヴィンスキーやシェーンベルグにはない官能性がある。僕は彼女に言った。

「僕は君の前でサティを弾いてあげたいんだ。まず今夜はグノジェンヌを弾いて、そして二人の夜明けにジムノペディを弾きたい。きっとそれは官能的な二人のモダニズムの夜明けとなるだろうから」

「私ヴェクサシオンが聴きたいわ。あなたがヴェクサシオンをミスタッチも音の強弱もせず無事に弾けたら私を好きにしていいわ」

「僕をなめているのかい?あんな単純な曲最期まで完璧に弾き倒してやるさ」

「じゃあ決定ね。今から私のうちにきてピアノ弾いてよ」

 というわけで僕はヴェクサシオンを弾くために彼女の家にいくことになった。そして彼女の家に入ると僕は何故か家の隅っこにある狭いピアノ室に案内されてそこで彼女からヴェクサシオンの楽譜を渡された。

「じゃあ早速始めて。あのトイレとかしたくなったらピアノの下にあるから弾きながらしてね。ただし、おならとかしたらミスタッチとかと同じになるから最初から弾き直しね」

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