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海外文学オススメの十冊 第四冊目:ブヴァールとペキュシェ フローベール

『ボヴァリー夫人』で名高い作家フローベールのこの未完の遺作は同時代では全く評価されなかった。彼にこの長編小説の構想を打ち明けらたツルゲーネフは、この友人のあまりに無謀な計画に長編ではなく、短編の連作にした方が良いと勧めたという。また自然主義作家のゾラもツルゲーネフと同じようにフローベールが誤った道を進んでいるとこの偉大なる写実主義の巨匠の迷妄を嘆いていた。そしてフローベールの真の後継者であるヘンリー・ジェイムズもまたこの小説を散々たる失敗作と評していた。ジェイムズはツルゲーネフやゾラと違ってフローベールを単なる写実主義作家ではなく何よりも言葉の作家である事を見抜いていた。彼の描写は事物をただ描くものではなく、小説の構成自体に関わるものだという事をわかっていた。その彼でさえ『ブヴァールとペキュシェ』の真の価値は見抜けなかったのである。同時代でフローベールのこの小説を唯一評価したのは彼の弟子であったモーパッサンだけであった。モーパッサンは『ブヴァールとペキュシェ』をフローベールの最高傑作としボヴァリー夫人すら超えるものと主張している。ただその彼でさえこの作品は題材の特異性から一般には受け入れられるものではないと懸念を表している。

 このモーパッサンの『ブヴァールとペキュシェ』評は非常に先駆的で、これ以降この小説の価値はジョイスを代表とするモダニズムによる再評価を得て急速に認められてゆく。恐らくこの未完の小説がフローベールの傑作であるばかりでなく、後のモダニズム以降の小説を予告した作品だという評価が決定的になったのは二十世紀中盤のヌーヴォー・ロマンの作家たちの登場以降だろう。小説の破壊、作者の消滅等。この世代の作家たちが行おうとしていた試みをすでに『ブヴァールとペキュシェ』は行っていたのである。

 とここまでざっと文学史などで『ブヴァールとペキュシェ』がどのように語られていたかをざっと書いてきたが、今改めてこのフローベールの未完の傑作を読んでみるとやはりこの小説は異端だなと思う。フローベールは『ボヴァリー夫人』以降描写を自らの文学の根本として定め、以降の作品でますますそれを追求していった。『サランボー』の古代カルタゴの資料を徹底的に活用し文体に取り込んだ『サランボー』そしてバルザックやスタンダール、そしてあのヘンリー・ジェイムズさえ使用していた語り部としての作者の存在を、少なくとも小説の表面からは完全に消した『感情教育』等、その成果は今日では広く認められている。フローベールはこれらの作品では緊密な構成を保っていた。描写に関しても冒頭から終結に至るまで一貫したものを保っていた。

 だが『ブヴァールとペキュシェ』ではそれが完全になくなっている。この小説はそれまでのフローベールの長編のような一貫したストーリーはなく小さなエピソードの集積である。この小説はパリで書記として雇われていた二人の男が偶然出会い友達になり、二人で理想の生活を送るためにノルマンディーのとある農園を買い取ってそこで暮らすことから始まる。この二人は農園で暮らしながら園芸から始まり医学や、さらに哲学とありとあらゆる研究と実験をするのだか、その失敗への過程の滑稽さがエピソード毎に繰り返し書かれるのである。確かにこれではツルゲーネフが短編にする事を勧めたように長編小説として成り立たせるだけの構成は持ち得ない。この小説の構成力のなさは批判者が口を揃えて言う事である。それは確かにそうだとも納得するし、逆にその構成力のなさこそフローベールが小説に突きつけた痛烈なノンだと反論することも出来る。

 フローベールはこの作品で十八世紀に確立した百科事典的な思考の批判を徹底的に行ったと研究書の類いには書いてある。十九世にこんな事を考え小説として書いた作家は勿論フローベールしかいない。フローベールはこの小説でひたすら研究と実験の失敗を繰り返し描いていくが、我々は途中まで読んだところで何かがおかしいと気づくのである。常識人に見えた二人の男は研究と失敗を積み重ねる毎に変になっていき、ついにはカフカの小説さえ思わせるような行動に出る。この延々と続くような未完の小説を読み続けていくと、作者があの写実主義の傑作『ボヴァリー夫人』を書いた人間と同じなのだろうかとさえ疑ってしまう。フローベールにとってこの遺作『ブヴァールとペキュシェ』は『ボヴァリー夫人』以来追い求めた小説なのであろうか。この延々と続く滑稽譚で彼は一体何を表してたかったのか。いや、こんな事を「主題のない本」を書きたいと願っていた作家に問うのは野暮中の野暮であるがつい描かざるを得ない。この小説は散々書いているように小さなエピソードの集積で小説を貫くストーリーは実質的にない。しかし読み続けていると我々は確かに小さくあるがとんでもなく深い世界をそこにみるのである。

 最後にこれは完全な私見だが、私はこの小説にモダニズムやヌーヴォー・ロマン的なものは特に感じない人間だ。私はモダニズムやヌーヴォー・ロマンの文学者たちがこの小説を持ち上げたのは、それが自分たちがやろうとしている文学にとって都合が良いものだったからだと考えている。ヌーヴォー・ロマンの直接の先駆はアンドレ・ジッドの『贋金づくり』だろうし、フローベールは意識的にもさほど同時代の文学者より進んでいるとは思わないからである。現代作家の中にはフローベールの行った百科事典的なもののパロディを行っているものもいるが、彼らのやっている事は手法であり、フローベールが行おうとした事は願いであった。現代作家や評論家はフローベールの言葉を引用して彼がいかに現代文学に近いかを語るが、彼らがフローベールの言葉を用いて言わんとしている事は手法であり、理論のための都合のいい文句なのである。フローベールの言葉は小説の手法や理論のための文句ではなく、彼の孤独な願いであった。彼の有名な言葉『ボヴァリー夫人は私だ』も『私は物になりたい』も『主題のない本』も全て。

 この『ブヴァールとペキュシェ』はその作家ぎ孤独な願いを託してかきあげようとした小説である。この小説は同時代には理解されず、未来においても後継者を持たず、ただ強い光を放つ孤独な恒星のように孤独に虚無の宇宙を漂っているそんな作品である。

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